コラム グローバルエコノミー 2017.07.13
日EU自由貿易協定交渉ではチーズの関税の扱いが焦点となった。交渉の結果は、①ゴーダなどのハード系のナチュラルチーズ(プロセスチーズの原料用)はTPP合意と同様撤廃する、②カマンベールやモッツァレラなどのソフト系のナチュラルチーズ(直接消費用)については、ア.関税は削減・撤廃しない、イ.その代り低関税の輸入枠を設け、その輸入枠を使って輸入されるチーズの関税を16年かけてゼロにする(輸入枠についての当初の関税の水準は公表されていない)というものだ。EUは一定の数量までは低い関税で輸出できるが、その量を超えると29.8%というこれまでと同様の関税が適用されるということである。
その輸入枠については初年度2万トン、16年目に3.1万トンにする。現在EUからのナチュラルチーズの輸入量は6.8万トン、そのうち明らかにソフト系と思われるフランス、イタリアからの輸入が合計1.8万トンであること、チーズの消費量は増加していることからすると、それほど大きな量ではない。
これによってチーズの小売価格が下がり消費者が利益を得る一方酪農に大きな影響が生じるという解説報道が行われている。JA農協の機関紙だけでなく主要な全国紙も同様であり、ある全国紙は酪農への影響を懸念する農協系の研究者の発言を引用している。しかし、すこしだけ経済学の基本がわかっていればそのようなことは起きないことがわかる。チーズの輸入は増えないし、国内の生産に影響は生じないのだ。
まず、現在の国内チーズ市場での需給関係を説明すると次の図の通りとなる。
SdBは国産チーズの供給曲線、BSiは関税29.8%を払って輸入される輸入チーズの供給曲線である。
国産については、価格が下がると、その価格で供給できる生乳の量は減少し、チーズの生産量も減る。逆に価格が上昇すると、生産は増加する。国産チーズの供給曲線は右上がりとなる。これに対して輸入については、EUだけでも、その生産量は700万トンもあり一定の価格で潤沢に供給できるため、輸入の供給曲線は極めて弾力的であると考えてよい(日本の商社が数万トン買い付けただけでEUの価格が上昇するわけではない)。
需給が均衡するのは、E点であり、この時国産の供給量はAB、輸入チーズの供給量はBEとなる。E点の価格よりも安いコストで供給できる国内のチーズ生産者も受け取る価格は同じである。
これに今回の合意内容の低関税の輸入枠による関税支払い後の供給曲線BCを入れたのが下の図である。需給均衡点Eは変わらない。価格が変化しないので、国産の供給量は同じである。政府は今回の合意で国内の酪農に影響があるので、保護を積み増ししようしているが、そのようなことは行うべきではない。影響はまったくないからである。トータルの供給量=需要量も変わらない。輸入チーズの供給量も変わらない。変わっているのは輸入チーズの内訳が低関税の輸入枠BCと通常関税29.8%を払って輸入される分のFEとなっているだけである。EUのチーズ生産者は今回の合意によるメリットを全く受けない。輸入枠内の低関税が16年目にゼロになるということは、BCがそのまま下方にシフトすると言うだけで、上の結論は変わらない。 低関税の輸入枠BCによる輸入も通常関税29.8%を払って輸入されるチーズと同じ価格を受け取る。新聞各紙も農協系の研究者も低関税の輸入枠BCによる輸入は安い価格で国内で流通すると考えているようである。
もちろん、輸入枠の量BCが大きければ価格は低下する。次の図で、需給均衡価格はE'に低下する。この時、国産のチーズ生産量は価格低下に伴い減少するとともに、通常関税29.8%を払った輸入はゼロとなる。輸入の増加分は価格低下による需要量の増加分を上回ったものとなる。しかし、今回合意した輸入枠の水準は大きなものではない。
では、低関税の輸入枠でEUの輸出が増えないとすれば、だれが利益を得るのだろうか。
輸入枠というのは、それを使って輸入する業者が低い関税(たとえば10%)を払うだけで済むというものである。この輸入枠というのは、どのようにして業者に配分されるのだろうか?これまでの輸入実績に応じて配分したり、政府の窓口に来た者順に配分するという方法と、政府が入札を行い、高く応札した業者から配分するという方法がある。
最初の2つの方法では29.8%の関税を払って輸入されるチーズ(1000円の輸入価格だと国内販売価格は1298円)と10%の関税をかけて輸入されるチーズ(国内販売価格は1100円)の差額分198円は、輸入した業者のポケットに入る。なぜなら市場で1298円で買われているときにわざわざ1100円で売る必要はないからである。仮にこの業者が小売業者に安く売っても、小売業者が他の輸入物と同じ価格で販売して利益を受ける。このような輸入差益は経済学ではレントと呼ばれているものである。
入札の方法では、業者はこの差額分198円から自己のマージンを引いた額で輸入する権利を応札することになる。このときレントは政府が徴収することになる。
前者はかつて輸入割当て(ガットウルグァイラウンド交渉で関税化されWTOでは禁止されている)が行われていたころの透明性のないやり方で、かつレントが業者に帰属することからその利権を巡って不正が生じたこともある方法である。このため入札による配分が行われる可能性が高い。米などの輸入枠は入札で行われている。つまり今回の合意でレントを得るのは日本政府なのである(もちろん、従来からこのレント分は関税によって徴収してきたので、日本政府としては新たに利益が増えるというものではない)。
農林水産省の担当者がここまで考えて交渉したとは思えない。関税が下げられなければ低関税の輸入枠を設定してしのぐというのは、これまでも脱脂粉乳やバター、さらには米などで使われた交渉のパターンだからである。
しかし、これまで輸入枠を設定してきた農産物とチーズが異なるのは、前者については通常の関税が200%を超え、これを払った輸入がほとんど行われない(輸入禁止的な関税という)ため、低関税の輸入枠を設定しても通常関税を払った輸入を置き換えることはないのに対して、チーズの29.8%の関税は低く、これを払った輸入が行われてきたため、輸入枠がこれまでの通常関税による輸入を置き換えることになる。
バターや米の場合、関税ゼロの輸入供給曲線はSi、輸入禁止的な関税がかかっている場合の輸入供給曲線はStである。Stは国内の需給均衡価格を上回っているので、関税を払っての輸入は行われない。国産、輸入合わせた供給曲線はS0CE'となる。AB=CE'は輸入枠を使った輸入、CDに相当する額は入札によって政府が徴収するレントである。このとき価格は下がり、全体の消費は拡大するが国産の供給はOFからOAへ減少する。
今回の自由貿易協定交渉の敗者はEUである。おそらくEUの交渉者に法律の専門家が多く、経済的な分析ができなかったからだろう。日本の交渉者も意図してこのような結果となったわけではないが、経済学を知らないことが幸いしたといってよい。