メディア掲載  グローバルエコノミー  2017.03.27

農業労働問題の抜本的解決策

『週刊農林』第2309号(3月5日)掲載

農業を工業化しよう


 外国人労働者を需要しているのはどのような農家だろうか。それは水田作以外の、野菜・果樹、畜産などの農家である。これらの農業では、労働が不足しており、さらに農業所得も高いので、追加的な労働を雇用したいという需要がある。しかし、日本人の賃金を払うと採算が合わなくなるので、外国人労働者を需要することになる。逆に言うと、労働は不足しているものの、日本人並みの賃金を払うほど農業収益は高くはないということである。前号で示した、これ以上報酬が上がると外国人労働者の受け入れはきついという野菜農家の発言には、このような経済的な背景がある。労働供給が過剰な水田作と不足しているそれ以外の農業とでは、異なる対策が必要となる。

 水田以外の農業では、労働に対する需要はあるが、収益が低いので、正当な報酬が払えない。農産物価格が上昇すれば収益が上がるが、グローバル化の下で海外の農産物と競争しなければならないうえ、そもそも農産物価格だけ上げるのは不可能だ。

 経済学的にみると、これらの農業の問題は、日本では労働が稀少であるにもかかわらず、労働を多く使う労働集約的な産業であるということである。資本が相対的に豊富で安い日本で、これらの農業を存続させようとすれば、労働集約性を減じて、資本集約性を高めればよい。具体的には、機械や装置という生産要素の比重を高めるのである。労働に対する需要を減らせば、これらの農業の問題は解決する。

 モデルはオランダの装置型農業と日本の水田作農業である。農産物輸出第二位のオランダ農業は、安い外国人労働者に依存しているのではない。高度な先端技術を農業に応用し、資本集約的な農業を実現している。センサー、ロボット、IT技術など、労働集約性を減じる技術を日本農業へ適用するのである。日本の水田作農業も労働集約的だったが、機械化によって労働節約的、資本集約的な産業に転換した。残念なことは、農政自身が規模拡大等を阻み、その能力を発揮することを妨げていることである。

 農業を工業化するのだ。明治年間、農業保護主義が蔓延する中で、農業の構造改革を主張したのは、柳田國男だった。しかし、柳田の主張は農業界にはほとんど受け入れられなかった。東畑精一は、農業が工業と違うことを力説する農業界と柳田との違いを、次のように解説している。

 「柳田氏の言論はまさにただ孤独なる荒野の叫びとしてあっただけである。だれも氏の問題意識の深さや広さを感得するものはなく、その影響を受けうるだけの準備を持つものは無くして終わったのである。(中略)農村・農民・農業は、他の社会・商工業者・他産業とは、いかに同一性格を持つかの大本を知ろうとしないで、差異を示し特殊性を荷っているかを血まなこに探し求めるに過ぎなかったのである。どうして柳田國男を理解し得よう。『あれは法学士の農業論にすぎない』のである。」(東畑精一『農書に歴史あり』1973年、P80)


労働供給の増加策


 他方で、農業への労働供給を高める努力も必要である。幸い農業に関心を持つ人たちが増えている。しかし、農業技術を取得して農業をしようとしても、ムラ社会では農地を取得することは簡単ではない。それだけではない。それ以前の問題として、農地の取得を認めない農地法という制度がある。農政自身が農業への労働供給を制限してきたのである。

 農業に新しく参入しようとすると、農産物販売が軌道に乗るまでに機械の借入れや生活費などで最低500万円は必要であるといわれる。農業と関係のある企業は、「農業は装置産業だ」と言っている。装置産業とは、一定量の生産のために、巨大な装置が必要になる産業である。農業にとって装置としては農地がまず考えられる。農地の性能がよくなければ、作物の生産性はあがらない。地面があるから、そこに何か植えれば、それで収穫ができるというものではない。肥料や農薬などの運転費用も当然必要であるが、堆肥を入れたり、土の腐食化を図ったりして土づくりをして、さらに、暗渠や明渠など、土木的な措置を施して、田や畑を作り上げていかなければならない。そのための初期投資が必要になる。また、田植え機、トラクターやコンバインなどの機械への投資も必要である。農業には、大きな投資が必要になる。

 それだけではない。農業には技術が必要である。また、土地の条件や周りの環境によって肥料や農薬のやり方など微妙な調整が必要だし、仮に上手くいったとしても、天候によって作物が収穫できないことも覚悟しておく必要がある。はじめてから数年間は収入がないことを見越して生活資金を用意しておかなければならない。

 本来装置産業の場合は、長期の資金やリスクマネーによって設備投資し、その設備によって生産性を高めて、競争力をつけていく。そのために望ましい資金は、金利のつかない投資資金、すなわち"出資"である。融資の場合には元金と利子を返済しなければならないが、出資の場合には、失敗したら返す必要はない。リスクの高い事業を行おうとする一般企業の世界ではそれが常識である。ところが、農業の担い手たちは、必要な資金もリスクも高いのに、運転資金も設備投資の資金も借金で賄うしかない。友人や親戚に出資してもらい、株式会社を作って農地を買うことは、農地法で禁じられているからだ。

 当初、農地法は法人が農地を所有したり耕作したりすることを想像すらしていなかった。しかし、節税目的で農家が法人化した例が出たため、これを認めるかどうかで農政は混乱した。ようやく、1962年に「農業生産法人制度」が農地法に導入されたが、これは農家が法人化するものを念頭に置いたものであり、株式会社形態のものは認められなかった。厳しい要件を課したうえで、株式会社を認めたのは2000年になってである。以降規制緩和がなされてきたが、農地所有も可能な株式会社を作って農業に参入することは、これらの出資者の過半が農業関係者でない限り、農地法上認められない。

 このため、新規参入者は銀行などから借り入れるしかないので、失敗すれば大きな借金が残る。農業には自然条件による経営リスクがあるほか、法律制度上も農業は参入リスクが高い産業となっている。株式会社なら失敗しても友人や親戚等からの出資金がなくなるだけで、「ごめんなさい」と頭を下げれば済む。株式会社のメリットは、事業リスクを株式の発行によって分散できることだが、農地制度は、意欲のある人がベンチャー株式会社を作って農業に参入する道を自ら絶っている。

 農家の子弟だと、たとえ郷里を離れて東京や大阪に住んでいようと、農業に関心を持たない人であろうと、相続で農地は自動的に取得できる。耕作放棄しても、おとがめなしである。それなのに、農業に魅力を感じて就農しようとする人たちには、農地取得を困難にして、農業という「職業選択の自由」を奪っているのだ。

 逆に言うと、農政は農業の後継者を農家の後継者からしか求めてこなかったのだ。農家の子供が農業は嫌だと言ってしまえば、農業の後継者はいなくなる。これが高齢化の一因でもある。農家以外の新規就農者は全体の15%に過ぎない。これに対し、デンマークでは、新規就農者の6割が非農家出身である。

 農政は新規就農者のために多額の予算を投下している(農林水産省は、青年就農者1人に年間150万円、最長7年間、計1,050万円を交付する事業を推進している)が、自らの制度が新規就農を阻んでいることに気がつかない。出資によるベンチャービジネスを認めれば、新規就農者は自由に資金を調達できるので、多額の補助金を新規就農者に与える必要はない。

 農地制度にはもうひとつ問題がある。不十分なゾーニング規制である。ヨーロッパでは、土地の都市的利用と農業的利用を明確に区別するゾーニングが確立し、農地資源を確保している。その下で、他産業の成長が農村地域からの人口流出をもたらしたので、自動的に一戸当たりの農地面積は増加した。

 我が国でも「都市計画法」で市街化区域と市街化調整区域が区分され、「農業振興地域の整備に関する法律」(農振法)により指定された"農用地区域"では、転用が認められないことになっている。しかし、これらのゾーニング規制は十分に運用されなかった。農家が、農地転用が容易な市街化区域内へ自らの農地が線引きされることを望んだからである。

 我が国で農業の規模が拡大しないのは、二つの原因がある。ゾーニング規制が甘いので、簡単に農地を宅地に転用できる。農地を貸していると、売ってくれと言う人が出てきたときに、すぐには返してもらえない。さらに、高米価政策でコストの高い農家も農業を続ける。以上から、主業農家が農地を借りようとしても、農地は出てこない。

 食料安全保障の見地から農地資源を確保するためにも、農業を振興するためにも、ゾーニングを徹底したうえで、農業後継者の出現を妨げている農地法は、廃止すべきである。これが、シンプルで抜本的な解決策である。真剣に農業問題を考えている人たちなら異存はないと思うのだが、いかがだろうか?