つい最近まで農政について素人だった若い政治家、小泉進次郎がこの1年余り、全国を飛び回って農業改革に取り組んできた。昨年10月に自民党農林部会長に就任して以来、各地の農家を精力的に視察。この8月には、本人の強い希望で異例の2期目続投となった。
10月のある日、環太平洋連携協定(TPP)についての国会質疑を見た。質問に立った議員の多くは与野党とも農業を基盤とする議員だった。国会の農林水産委員会に集まる議員は自民党から共産党に至るまで、ほとんど同じ意見を持つ農業界の代弁者である。彼らは次のように主張する。農家の所得を上げるべきである。そのためには農産物価格が低下してはならない。特に、たくさんの農家が作っているコメの価格は高く維持すべきだ。そのために供給を削減する減反政策は必要である。国内の高い農産物価格維持のためには高い関税が必要だ。
多くの国会議員が農業界の立場から質問したのに対して、小泉進次郎の質問は異彩を放っていた。「農業を勉強してもよく分からないことがある。資材を安く買おうとして農協をつくったはずなのに、農家はどうして高い資材を購入しなければならないのか」という趣旨の質問だった。
それまで、このような質問はタブーだった。資材価格の高さを指摘する政治家はほとんどいなかった。私が数年前、統計数字で肥料、農薬、農業機械、飼料といった全ての農業資材の価格が米国の2倍もしていると指摘するまで、農業研究者で外国と比べてどの程度高いのかを調べた人はいなかった。
農業の世界は、農林水産省、農協、農林族議員、農学者が共に同じ利益を共有する運命共同体である。これを"農業村"と呼んでよい。農協は選挙で農林族議員を当選させ、農林族議員は農林水産省の予算獲得を後押しし、農水省は高米価や補助金という利益を農協に与え、農協から高い講演料などを受け取る農学者(主に農業経済学者)は農業村に都合のよい主張を、中立を装った立場から行ってきた。農業経済学者の中には、政策を論じているのではなくエビデンス(事実)を研究しているのだという人もいるが、かなりの農業経済学者は農業村の利益に沿った政治的主張を行ってきたし、農業資材価格の水準だけではなく、減反がなければ米価はどのような水準になるのかというエビデンスを研究した人はいなかった。農業村に都合の悪い研究はタブーだったのだ。
農業村の中心にいるのは農協である。日本の農協は、日本の法人や協同組合の中でも、世界の協同組合の中でも、特異である。日本では、一般の銀行は他業との兼業を禁止されている。欧米の農協は、農産物の販売、資材購買、農業金融などそれぞれに特化している。日本の農協のように、銀行(貯金・融資)、生命・損害保険、農産物販売や資材購買、生活物資・サービスの供給などの事業を総合的に行う組織ではない。
欧米にも、農業の利益を代弁する政治団体はあるが、これらの団体自身が経済活動を行っているのではない。日本では、経済上の特権的権能を持った農協が政治活動まで行っている。このため、農家の利益というより、自らの経済活動の利益を実現しようとして政治活動を行うようになった。私はかつてあるジャーナリストから「欧米では農業保護のやり方を高い価格ではなく財政からの直接支払いという方法に転換したのに、なぜ日本ではできないのですか?」という質問を受けたことがあった。一晩考えて、欧米にはなくて、日本に存在するものがあるからだと気付いた。総合的な経済活動を行い、かつ強い政治力を持つ農協である。
農協の利益確保の手段として使われたのが、高米価政策だった。高米価政策のおかげでコストの高い零細な兼業農家も農業を継続した。彼らは本業が会社員などで、週末だけ片手間に農業をしている人たちである。コメ農家数が減少しなかったので、農協は組合員数を維持できた。水田は保守政権を支える票田となった。組合員であるコメ農家は兼業収入や年金収入だけでなく、農地を転用して得た年間数兆円に及ぶ利益も、農協の銀行部門「JAバンク」に預金した。農業、特にコメの生産が衰退する一方で、コメ農業に基礎を置く農協は大きく発展し、日本の金融機関の中で2位の座を争うメガバンクとなった。
農業が衰退するのに農協は発展したというより、農業を衰退させることによって農協は発展した。その基礎にあったのは、特権的な農協制度と高米価政策だった。この2つの歯車が絶妙にかみ合った。高米価で兼業農家を維持したことが、銀行業務を含め、ありとあらゆる事業を行う権限を与えた農協制度とうまくマッチしたのである。
農協は、肥料では8割、農薬、農機具で6割という圧倒的な販売シェアを持っている。それなのに、協同組合であるという理由で、一部の規定を除き、農協は独占禁止法の適用を除外されている。農協がカルテルを結ぶことも自由である。
肥料、農薬、農機具、飼料など、主要な農業資材価格は、同じ原料を使いながら、米国の倍もする。ある地域農協が、JAグループで資材購買を担当する全国農業協同組合連合会(JA全農)から肥料の仕入れをやめたら、価格は3割安くなったという。ある大規模農家は、わざわざ韓国から肥料を輸入している。
農家が高い資材価格を払えば、彼らの所得は減少する。他方で農産物ひいては食料品の生産コストや価格は上昇する。しかし、全農は高い農業資材価格と農産物価格で2回高い販売手数料を稼げる。国際価格よりも高い国内の農産物価格を維持するためには、関税が必要となる。分かりやすい因果関係ではないか。農業村の政策は、生産者の利益も、消費者の利益も、さらには国民全体の利益も損なってきた。
多くの政治家は、貧しい人が高い食料品を買うことになる逆進性が問題だとして、消費税率引き上げに反対した。その一方で、関税で食料品価格をつり上げる逆進性の塊のような農政を維持することが、農業村の意向を無視できない政治家にとっては「国益」となるのだ。
米国や欧州連合(EU)諸国は高い価格ではなく、財政からの直接支払いを農家に交付することで、消費者には低い価格で農産物を供給しながら、農業を保護する政策に切り替えている。日本も直接支払いによって農業は保護できる。しかも、価格を下げれば需要が増えるので、減反をしなくて済む。さらに、兼業農家が退出し、主業農家に農地が集まり、規模が拡大してコストが下がれば、輸出が拡大し、農業は発展する。
関税がなくなり、農産物価格が下がっても、財政からの直接支払いを受ければ、農家は困らない。しかし、価格が下がると、販売手数料収入が減少するので、農協経営には大きなダメージとなる。また、価格低下でコストの高い兼業農家が農業から退出して組合員でなくなることは、脱農業化で発展してきた農協の土台を揺るがすことになる。だから、農協はTPP反対の一大運動を展開したのだ。問題はTPPと農業ではなく、"TPPと農協"だったのである。
農協の資材購買や農産物販売については、小泉進次郎の問題提起をきっかけに、政府・与党の農業改革を巡る議論の焦点の1つになった。11月11日、政府の規制改革推進会議の作業部会である農業ワーキング・グループが提言をまとめ、全農に資材購買部門を1年以内に縮小するといった抜本的改革を求めた。これに農協や自民党内の農林族議員が猛然と反発。党農林部会長の小泉は利害調整に苦しんだが、全農の組織刷新の期限を切らないなど農協側に配慮する形で、与党の改革案「農業競争力強化プログラム」を取りまとめた。そして政府の農林水産業・地域の活力創造本部(本部長・安倍首相)は29日、その案を政府方針として正式決定した。
最終的に決まった方針によると、全農は高い資材価格の原因になるほど多くなっている品目数を削減するなど、資材購買と農産物販売でそれぞれ事業の見直しを行い、数値目標を記した年次計画の策定・公表して、農水省が定期的に点検する。つまり農協側の自主的な改革を待つことになった。また、規制改革会議の作業部会が当初求めた「第二全農」の設立推進や銀行部門改革は削除された。
農協は本来、農家が資材を安く購入するためにつくった組織である。それが農家に高く売りつけることによって農協組織の利益を図るようになってしまった。これまでどの政治家もこの矛盾に気付かないか、無視しようとした。農業村の利益を損なうようなことはタブーだったのである。小泉進次郎が挑戦しているのは、高い農業資材価格だけではなく、農業村に支配された農政アンシャンレジーム(旧体制)である。減反による高米価政策を廃止すれば、コメの価格競争力が向上し、大量の輸出が可能となる。もちろん高米価は農協の生命線である。その打倒は容易ではない。しかし、農家の中で高いコメの恩恵を受ける兼業従事者の数は近年大幅に減少した。平安時代、朝廷軍の源氏と陸奥の豪族・安倍氏が争った前九年の役(1051〜62年)では、堅固さを誇った安倍一族の「衣の館(たて)」も、八幡太郎源義家を前にして「年を経し糸の乱れの苦しさに」ほころびた(『古今著聞集』)。農協改革はこれで終わりではない。2015年の農協法改正では、5年後にさらなる改革を行うかどうか検討することになっている。戦後最大の圧力団体である農協を今後もどこまで攻められるか、相模の国出身の若武者・八幡太郎の戦いに注目したい。
(本文中敬称略)