メディア掲載  外交・安全保障  2016.06.07

中国...巨大な合成の誤謬

産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2016年5月26日)に掲載

 この原稿は中国の新幹線車内で書いている。今回は駆け足で羽田、上海、南京、北京を回った。国内移動は全て高速鉄道だ。南京・北京間1等車は4時間で800元(約1万3千円)足らず。空港までの交通渋滞を考えれば列車の方が遥かに安く速いだろう。

 日本では伊勢志摩サミットが始まる。世界経済とともに関心が高いのは中露という東西大帝国の動向だ。特に、日本では南シナ海の自由航行が懸念されている。だが、中国でG7サミットに関心を持つ向きは少ない。この地では13億人の中国人が夫々(それぞれ)、良くいえば自由に、意地悪くいえば身勝手に、自らの生活を改善し、利益を極大化すべく日夜競争している。この当たり前の社会現象が日本では意外に見えなかった。中国とは巨大な「合成の誤謬(ごびゅう)」が生じつつある恐ろしい小宇宙なのだ。

 中国人の一生は世代で大きく異なる。まずは、筆者の理解を超える1990年代生まれから。彼らは全く別の中国人だと70年代生まれの中国人が嘯(うそぶ)いた。IT企業での彼らの意思決定は驚くほど早い。彼らはモノを店ではなく、アプリで買う。中国の大手無料アプリ微信(ウィーチャット)は今、世界に7億人のユーザーがおり、ネット上決済が急速に普及し始めている。確かに90后と呼ばれる彼らは中国を変えるだろう。だが、20年後、40代になる彼らは今の生活を維持できないかもしれない。その理由はこうだ。

 彼らの両親の多くは現在40代。60を過ぎて引退した彼らの祖父母は今、1人当たり月額2千元程度の年金収入があればよい方だ。しかも祖父母には医療保険がない。今は「小康」状態だが、一度病気になれば、一家は直ちに貧困化する。治療・介護費で最低月数千元が、がんにでもなれば手術代だけで数十万元が飛んでいくかもしれない。もちろんこれは真面目で清貧な党員の話。悪徳で栄える党員の家族にこんな苦労話はない。

 続いて、今40代の働き盛り世代を見よう。昔、管子は「衣食足りて礼節を知る」と教えた。70年代の日本の経営者は労働者が住宅を買えるよう支援したという。ところがどうだ、今中国の労働者は逆立ちしても、値段が高騰した住宅など買えない。20年後に定年退職する彼らは賃貸住宅から追い出され路頭に迷う。彼らの実子は一人っ子、両親と4人の祖父母で合計6人の老人を1人で支える計算だ。どう考えても、こんな社会は行き詰まると確信した。

 最後に党の官僚。今回は地方政府関係者と懇談した。相手は全員50代以上の党員だが、彼らが言うことは判で押したように同じだ。曰(いわ)く、▽日中関係はある程度改善したが、いまだ完全ではない▽両国関係改善には日本側が歴史問題に正しく向き合い、東シナ海で挑発を行わず、南シナ海で米軍作戦に参加しないことの3つが必要だが、日本はなぜ無関係の南シナ海の問題に首を突っ込むのか。

 筆者が「人民解放軍をちゃんとコントロールせよ」と反論したら、「軍の改革は進んでおり、問題は解決されつつある」と胸を張った。問題が解決したなら、一体何が問題だったのかと聞くと、相手は押し黙ってしまった。

 中国共産党は変わっていない。その陰で大きく変動し始めているのは中国社会そのものだと思えた。サミットでは南シナ海問題が議論されるだろう。だが、真に議論すべきは20年後の中国社会の崩壊をいかに食い止めるかではないのか。

 列車が北京南駅に着くまでに原稿は一応書き上がった。中国社会の変化があまりに激しく深刻かと思うと、溜息が出てくる。最後に一言いわせてもらう。なぜ中国人はわざわざ隣の乗客の耳元で携帯電話をかけた上、驚くほどの大声で話し続けるのだろう。20年後も変わらないのはこの光景だけかもしれない。