3月30日付日本経済新聞は、バター不足なのにバター向け生乳価格(乳価)が引き上げられないのは適切ではないという趣旨の記事(「バター向け乳価据え置き」)を掲載した。経済学からすれば、バター向け乳価が上がるとバター向け生乳生産が増加し、バターの供給が増えるはずであり、一見もっともらしい記事である。
しかし、結論から言うと、この記事は誤りである。バター向け乳価が上がっても、バター向け生乳生産は増加しない。それは、牛乳と乳製品の世界が自由な市場ではないからである。その生産・価格・流通は政策で歪められている。牛乳もバターも普通の財ではないのである。
まず、普通の財として小麦を例にとろう。
小麦の価格は、どの用途でも同じである。厳密にいうと、それぞれの用途に応じて異なる品種や品質の小麦が要求されるため、品種や品質の違いに応じた価格差もあるが、基本的には、小麦の価格水準がパン用とうどん用で異なるわけではない。一物一価である。一定の価格を基準として、品質の違いによって、価格が上下に開くのである。
しかし、生乳については、全く同じ品質であるにもかかわらず、飲用向けやバター、チーズなどさまざまな乳製品向けの用途に応じて、価格が異なる。これを〝用途別乳価〟とか〝用途別取引〟と呼んでいる。通常の商品と異なり、一物多価である。1966年の「加工原料乳生産者補給金等暫定措置法」に基づく規制によって、要求されてもいるし、可能にもなっている。
このような用途別価格や用途別取引は、何らかの政策的あるいは制度的な枠組みがない限り、機能しない。業者が、安い価格で買って、高い価格の用途に横流しすると、必ずもうかってしまうからである。自由な市場で取引されると、必ず一物一価となる。なぜ生乳について用途別取引が可能になるのかというと、簡単である。自由な市場ではないからである。
農家レベルでは、個々の農家の作ったどの生乳が飲用向けや乳製品向けに向けられるかわからないし、たまたま飲用向けとなった農家が高い乳価をもらうのは不公平なので、地域の酪農団体ごとに、これらの乳代をまとめて、平均した乳価を酪農家に支払っている。これを〝プール乳価〟と呼んでいる。
プール乳価は、乳製品向けが多い北海道では安く、飲用向けが多い都府県では高い。生産者からすれば、プール乳価が上がれば生産を増やすし、下がれば生産を減少させる。したがって、バター向け乳価だけ上げても、プール乳価が上がらない限り、生乳の生産は増加しない。
論理的には、飲用向け、生クリーム、チーズ向けなどの乳価が低下すれば、バター向け乳価を上げてもプール乳価は下がり、その結果生乳生産が減少し、バターに仕向けられる生乳が減少するという可能性もある。
さらに、バター向け乳価などを上げ、プール乳価を上げて生乳生産を増加させたとしても、飲用牛乳の消費が増加すれば、生乳は乳価の高い飲用向けに優先的には配乳される。この結果、バター向け生乳は減少する。要するに、一物多価という異常な世界にある牛乳・乳製品には、普通の経済学が通用しないのである。
もちろん、バター向け乳価を上げることがプール乳価の引き上げに通じ、かつ飲用牛乳の消費が予想を下回れば、バター向け生乳が増加し、バター不足の解消につながるかもしれない。それでは、なぜバター供給を増やしたい乳業メーカーが、バター向け乳価の引き上げに応じようとしなかったのだろうか?
それはバター向け乳価というものがないからである。牛乳から水分を除けば、バターと脱脂粉乳が同時に作られる。このバター、脱脂粉乳生産向けを加工原料乳という。加工原料乳からバターと脱脂粉乳が生産されるが、バターと脱脂粉乳の需要は同じではない。
実は、2000年まではバターが余り、脱脂粉乳が足りなかったので、脱脂粉乳を輸入していた。しかし、ある事件の影響で、バターと脱脂粉乳の需給状況が逆転してしまった。バターが不足し脱脂粉乳が余るようになったのである。これがバター不足の本当の原因である。このため、加工原料乳の価格を上げると、バター生産は増えるかもしれないが、脱脂粉乳は一層余るようになる。これは乳業としては脱脂粉乳の在庫増加となって好ましくない。
では、酪農団体はどうして加工原料乳価格の引き上げを要求しなかったのだろうか。それは、牛乳・乳製品という商品の特殊な事情から、乳製品の過剰が飲用向け乳価にも影響してしまうからである。これ以上は紙面の制約から説明できないので、興味のある方は、3月30日発売の小著『バターが買えない不都合な真実』(幻冬舎)をお読みいただきたい。
問題の根本は、農政によって作られた一物多価にある。
バター不足解消のために入札制にすればとか生産者団体の規制(現在は10の指定農協団体を通じて販売)を緩和すればという議論があるが、的を射たものではないし、ロジックもよくわからない。
オーストラリアは2000年に用途別乳価を廃止して、飲用向けや乳製品向けにかかわらず、一本の乳価に変更した。根本の改革は用途別乳価の廃止と自由貿易である。一つの乳価になれば、バターが不足し価格が上昇すると、乳価が上昇し生乳生産自体が増加してバター不足が解消される。脱脂粉乳の生産も増加し、その価格が低下する。乳価が十分に上昇しないでバターが依然不足するようだと、海外から輸入が行われるだけである。