今回の原稿はワシントン発帰国便の中で書いている。到着直後ホテルのテレビでカリフォルニアの銃乱射事件発生を知った。この種の事件、米国では日常茶飯事だ。つい数日前も同様の事件がコロラド州で起きている。当初、動機は「職場での個人的恨み」との見方が強かった。その後事件の詳細が判明し、今や「イスラム過激主義によるテロ」と発表された。前回はパリで起きた卑劣なテロを取り上げたが、今度は米国で多くの無辜(むこ)の市民が殺害されたのだ。この許し難き蛮行の犠牲となった方々のご冥福を心からお祈りしたい。
前回「イスラム過激テロは進化しつつある」と書いた。こうした事情は米国も同じらしい。犯人はシカゴ生まれのパキスタン系2世米国市民とその妻だ。2人とも物静かで敬虔(けいけん)なイスラム教徒だったらしい。夫は地方公務員で収入も安定し、少なくとも外見上は米国社会に溶け込んでいたという。人付き合いも悪くなく、「過激化」の兆候は見られなかった。犯行の動機は今も未解明だが、ごく普通のイスラム系市民が突如テロ実行犯となり得る米国の現実を改めて思い知らされた。
米国の旧友は「この国は何かがおかしい」と喉から絞り出すような声で呻(うめ)いた。「何だ、今頃分かったのかい」と筆者がちゃかしたら、「米国社会の最大の汚点は人種と銃だと別れた女房に言われたよ」と宣(のたま)う。もう35年の付き合いだ。本音を喋り出す兆候であることぐらいすぐ分かる。要するに、この問題は単なる地方コミュニティーでの銃乱射事件ではない。米国社会の恥部を象徴する根源的な矛盾だと言いたいのだろう。
案の定、米国の世論は大きく割れた。当初オバマ大統領は「イスラム過激主義によるテロ」と断定することを躊躇し、逆に共和党が支配する議会に「銃規制強化」の必要性を訴えた。これに国内保守派は強く反発。ドナルド・トランプ米大統領選候補は「イスラム」や「テロ」に言及しないオバマ大統領を強く批判した。銃規制反対派が市民の武装は憲法上の権利と主張し、リベラル・左派による銃規制強化論を「テロとは無関係」と一蹴。何のことはない。米国特有の出口のない「悲劇の政治化」現象が再び始まったのだ。
なぜ銃規制を強化しないのか。欧州・日本では当たり前の議論が、米国では当たり前にならない。実際、今回のカリフォルニアでの事件に巻き込まれた関係者の一部は「銃を持っていれば反撃できたのに」と悔やんでいた。事件後米国各地で銃の販売量が急増した。今頃、全米ライフル協会(NRA)はロビー活動を強化していることだろう。
政治化といえば、米国内のイスラム系団体も直ちに反応した。米国イスラム協会が記者会見を開き、今回の事件を強く非難した。当然だろう。これが「イスラム過激派のテロ」であれば、イスラム系米国人に対する差別と偏見が間違いなく高まるからだ。会見には犯人の兄弟まで登場し、家族だけでなく、米国内のイスラム社会が事件にショックを受けていると述べていた。
前回はパリの事件で「国境のない欧州」なる夢が終焉し、欧州で民族主義、排外主義、反移民主義が拡大すると書いたが、状況は米国も同じだ。米国内にもイスラム系移民の「海」がある。差別を感じる若者の不満や疎外感が貧困層だけでなく、インテリ層にも広がっている。この点も欧州とあまり変わらない。
銃規制反対派は「規制の厳しいフランスでも事件は起きた、銃規制は無意味だ」と主張する。だが、潜在的過激派が容易に強力な重火器を購入できる米国において問題はより深刻だろう。銃社会アメリカでのホームグロウン(地元型)テロはもはや可能性ではなく、現実の脅威だ。欧米だけではない。対テロ戦場がアジアに波及するのは時間の問題である。