コラム グローバルエコノミー 2015.10.21
TPP交渉が妥結した。
日米の政権の交渉妥結に向けての決意が実ったものだといえる。安倍政権にとってTPPは、第三の矢の最も重要な政策だった。また、これまで目立った実績のないオバマ米大統領は、政権のレガシーをTPPに求めていた。
連邦議会とは対決姿勢を貫き、ほとんど議会工作や根回しをしてこなかったと批判されてきたオバマ大統領が、通商交渉の権限を議会から政府に授権してもらうTPA法案の成立については、自らペロシ民主党下院院内総務の説得に乗り出すなど、積極的に動いていた。TPP妥結のためには、TPA法案の成立が必要だったからだ。
また、アメリカには中国が主導するAIIBにイギリスなど多数の同盟国が参加してしまったという、屈辱的な経験があり、TPPが成立しなければ、アジア・太平洋地域でアメリカの影響が格段に低下してしまうというおそれがあった。今回交渉を妥結させるため、オバマ大統領は各国首脳に積極的に働きかけている。
こうしてできあがったTPP合意をどう評価すればよいのだろうか?
輸入される食品が安くなるというメリットが強調されている。米、麦など重要5品目以外にもオレンジやリンゴなど関税が撤廃される品目が公表され、消費者は多くのメリットを受けるという報道と、農業は多くの打撃を受けるという報道が錯綜している。
しかし、農産物については、品目数でいうと、24%がすでに税率ゼロ、48%が20%以下となっており、これらの関税がゼロになっても、それほどのメリットはない。また、オレンジなどは過去に輸入制限を撤廃した時に、それなりの対策を講じているほか、国内の農業界は、デコポンなど輸入品と差別化した商品を開発しており、脅威を感じる農家はほとんどいないだろう。同じサクランボでも、国産とアメリカ産は全く別の商品だといってよい。
他方、牛肉を除き重要5品目には、100%以上の関税がかかっている。これらの農産物は、品目数では9%と少ないが、米、小麦、砂糖、バター、脱脂粉乳など、食生活に大きなウェイトを占めるとともに、パンやお菓子など他の食品の原料となるものが多い。これらの関税は今のまま維持される。今後日本がEUと自由貿易協定を結んでも、フランス産エシレのバターを買うには、300%以上の関税を払わなければならないという現状は変更されない。牛肉の38.5%の関税も、9%になるのは、16年後である。
このように関税撤廃の例外を多く要求したために、アメリカが自動車にかけている2.5%の関税は、15年後に削減が開始され、25年後になってやっと撤廃されることになった。私は、9月上旬に日本記者クラブで講演した際に、農業関係の新聞記者から、こんなメリットの少ない協定に参加する意味があるのかという質問を受けた。しかし、そんな協定にしたのは、あなたがた農業界ではないのだろうか?
農業については、関税を維持した米だけではなく、関税を削減する牛肉や豚肉についてもほとんど影響はない。TPPで農業が影響を受けるという一部の報道や有識者の意見は、誤っている。ある意味で、日本の交渉者は上手に交渉したといえる。
牛肉については、38.5%の現行関税を15年かけて9%に引き下げるという。しかし、これによる影響はほとんどない。91年に輸入数量制限を廃止して関税のみの制度に移行したが、このときの関税は70%だった。現在の関税はその約半分に下がっている。しかし、和牛の生産は、自由化前の18万トン程度の水準から今では23万トン程度へと、減少するどころか増えている。
輸入牛肉と競合するのは、メスのホルスタイン(乳用種)が出産するオス子牛に、アメリカ産の輸入飼料を与えて大きくした牛である。これはスーパーでは"国産牛"という表示で販売されている。自由化後、牛肉業界は、メスのホルスタインに、和牛の精液を人工授精して肉質の高い交雑種を出産させてきた。最近では、和牛の受精卵を子宮内に挿入して和牛自体を出産させたりする対応を行ってきている。
もちろん、未だに乳用種のオス牛の生産は国内生産量の3分の1を占めるが、単価が低いので金額的には大きなものではなく、5,200億円の牛肉生産額のうち700億円程度にすぎない。関税削減で価格が下がったとしても、現在の肉用子牛補給金制度で十分に対応できる。
さらに、38.5%の関税が意味を持たなくなるような50%もの円安が進行している。輸入牛肉の価格上昇を受けて、国産の牛肉価格も、2008年から2012年にかけての価格の、倍近い価格で好調に推移している。関税を撤廃してもおつりがくる状態だ。
豚肉については、10年かけて、安い肉にかかっているキログラムあたり482円の関税を50円程度まで下げ、高い肉にかかっている4.3%の関税を撤廃するという。しかし、差額関税制度という複雑な制度をうまく利用し、業者は高級部位と低級部位をミックスして、最も関税が安くなる方法で輸入しており、実際に払っている輸入関税は4.3%にすぎない。一見大幅な関税削減に見えるが、4.3%の関税がゼロになったとしてもほとんど影響はない。
現在米のミニマム・アクセス(関税ゼロの輸入枠)は77万トンであるが、アメリカの要求を入れて、そのうち10万トンは主食用として日本の市場に入れている。その入札方法は同時売買(SBS)方式といい、海外の売り手と日本の買い手がセットで入札し、買い手の価格(日本での卸売価格に相当)と売り手の価格(日本への外米輸入価格)の差が大きいものから落札するというものである。この差は内外価格差に他ならない。内外価格差があれば、必ず入札に応じる業者が出てくる。これまで次の例外的な年を除いて、この輸入枠の消化率は100%だった。
国産米価が12%低下した2010年度に消化率は31%、13%低下した2013年度の消化率は61%だった。しかし、2014年度は国産米価が12%下がっただけで、消化率は12%、1万2千トンの輸入にとどまった。特に、最終回の3月は、政府が88,610トンの枠を提示したにもかかわらず、216トンの落札にとどまった。なんと消化率は0.2%である。
これは、次の図が示す通り、内外価格差が解消したからだ。
かつて大量に輸入された中国産米は価格競争力を失い、2013年度以降輸入されていない。2014年度のカリフォルニア米の輸入価格は12,582円である。2014年9月から国内の米価は傾向的に低下しており、2015年4月で11,921円である。内外価格差は解消したどころか、完全に逆転した。
さらに、従来、品質格差を反映して、日本市場で国産米はカリフォルニア米よりも2~3割ほど高く評価されてきた。国産米は表面的な数字以上に大幅に割安になっている。一部商社は、日本米をカリフォルニアに輸出しようとしている。
TPP交渉で新たにアメリカ7万トン、豪州0.84万トンのSBS方式の枠が導入される。しかし、現在の10万トンの枠すら、ほとんど消化されないのに、輸入枠を追加しても、空枠に終わるだけだ。
減反を強化して国産米価を上げれば輸入されるようになるが、その時は、これまでと同様、輸入米と同量の国産米を買い入れてエサ米などに安く処分する。農業には影響はない。得をするのは米豪の農家であり、この財政負担で損をするのは、納税者である我が国民である。
TPP交渉で、米の関税を撤廃しても、日本の米農業に影響はなかったのだ。農産物の関税を撤廃することが日本の交渉方針となっていれば、自動車の交渉で苦しい思いをしなくてもよかったはずだ。これは、日本農業にも必要だったのだ。
「関税は独占の母」という経済学の言葉がある。関税を撤廃すれば、国内の価格を国際価格より高めている減反政策は維持できない。というより自動的に廃止となる。
2014年国内米価の低下と輸入米の価格上昇で、内外価格差は解消、逆転した。このような状況では、輸出すれば国内価格よりも高い価格で販売できるので、わざわざ減反をして、国際価格よりも低い国内価格を維持する必要はない。減反を廃止すれば、8,000円程度まで国内の米価は下がり、輸出を大々的に行えることになる。輸出が増えれば、国内市場の供給量が減少するので、米価は上昇する。輸出価格が12,000円なら、国内の米価もその水準まで上がるので、国内の米生産は拡大する。
短期的には、米価低下で影響を受ける主業農家には、財政から2千億円程度の直接支払いを行えばよい。減反補助金の4千億円がなくなるので、財源は十分ある。米価が上昇していけば、この直接支払いは不要となる。さらに、米価低下により高いコストを賄えなくなった零細な兼業農家は、農業を止めて、農地を主業農家に貸し出すようになる。農地が直接支払いで地代負担能力の高まった主業農家に集積し、規模が拡大すれば、コストは低下する。減反によって、収量増加につながる品種改良は禁じられ、今では、日本米の平均単収はカリフォルニア米よりも6割も少なくなっている。コストは面積当たりのコストを単収で割ったものだから、減反廃止で単収が増えるとコストも低下する。規模拡大と収量増加で、日本米の価格競争力は、さらに一層向上する。
高い関税で守っても、国内市場は人口減少で縮小する。国内市場だけでは、農業は安楽死するしかない。品質の高い日本の米が、減反廃止によりさらに価格競争力を持つようになれば、関税が不要になるばかりか、輸出によって世界の市場を開拓できる。これこそが、日本農業再生の道である。
TPPで米の関税を撤廃できれば、減反を廃止できた。日本農業は、またしても活性化のための機会を失ってしまった。米の関税をなくしてほしいと訴える主業農家も出てきている。しかし、このような声は、TPP交渉には反映されなかった。
もちろん、メリットもある。
第一に、他の国の市場へのアクセス増加である。アメリカの自動車関税などを除き、日本が輸出する農産品も工業製品も、相手国の関税が引き下がるメリットを受ける。コンビニ店舗や銀行の支店の出店もより拡大される。また、公共事業などの政府調達も、アメリカ、オーストラリア、カナダ、シンガポール、ペルー、チリについては、今以上にアクセスの範囲が拡大するし、それ以外の国に対しては、新規にアクセスできる。
第二は、ルールの設定または拡充である。偽造品の取引防止など知的財産権の保護、投資に際しての技術移転要求やローカルコンテンツ要求の禁止、動植物検疫・食品安全措置についての透明性向上や紛争処理のための協議、国有企業と海外企業との間の同一の競争条件の確保、関税削減・撤廃の優遇措置について、域内すべての付加価値を合算することで一定上の付加価値率を実現している物品を対象とできる累積原産地規則など、WTOの規律以上またはWTOでは行ってこなかった分野についての規律が導入された。
第三に、自由貿易協定は、入るとメリットがあるが、入らないとデメリットを受ける。野田総理(当時)のTPP事前交渉参加の発言を受けて、カナダとメキシコの首脳が、その場でTPP参加を決断したのは、その例である。TPPが大きなものであればあるほど、また大きくなればなるほど、参加を希望する国は増える。また、日中韓、日EU間の自由貿易協定交渉も加速するだろう。
以上のようなメリットもあるが、すべての関税撤廃など当初目指したレヴェルの高い協定は実現できなかった。21世紀型の自由貿易協定と胸を張れるようなものには、ならなかった。
政府は、TPPで影響を受ける農家への対策を行うという。歴史は繰り返す。ガット・ウルグァイ・ラウンド交渉でも6兆100億円の国内対策が講じられた。
私は、ガット・ウルグァイ・ラウンド交渉に参加した。当時は、輸入数量制限などの関税以外の措置を関税に置き換えること(「関税化」といった)が大きな問題だった。われわれは関税化の特例措置を勝ち取ったが、関税化していれば、消費量の5%のミニマムアクセスで済んだところを、8%にするという代償を払うことになった。
細川内閣(当時)は、これを受け入れるに当たり、国内の需給に影響を与えないという、閣議了解を行った。つまり、輸入はするのだが、財政負担をして、輸入した米と同量の米をエサ米や援助用に処分するので、国内の生産を減少させる必要はないというものだった。しかも、今まで通り、輸入制限は維持・継続するのだから、国内農業には全く影響はない。米価も下げる必要はない。したがって、何らの国内対策も必要なかった。事実、なんの影響もなかった。
しかし、自民党は政権復帰後、巨額の対策費を実現させた。この国内対策には、いかなる理屈も正当性もなかった。影響がないのに対策が打たれたのである。農業の合理化を進めるのだ、そのために基盤整備等のための公共事業や構造改善事業等が必要なのだという理屈が、無理やりこじ付けられた。今まで通りなので、合理化する必要もなかったのだ。
結局、使い道に困った市町村によって、温泉ランドなどの壮大なムダが生まれた。巨額の国費を公共事業に投じたにもかかわらず、基盤整備は進まなかった。このとき、本気で基盤整備を行っていたなら、TPPで大騒ぎしなくてもよかったはずである。
今回も影響がないのに、対策が打たれる。守りではなく攻めの対策を講じるのだと主張される。言葉は違うが、前回と同じ主張だ。安倍政権発足後、鳴り物入りで導入した農地の流動化対策は、これまで農地の出し手が出てこなかったので、機能しなかった。これを大幅に拡充して、規模拡大を進めるのだという。
しかし、なぜ農地が出てこないのか。減反で米価を高く維持しているので、零細でコストの高い農家も、米作りをやめないからだ。それでも、昨年の米価低下で、東北の一部では農地が出てきはじめた。それなのに、農政は減反を強化して米価を上げようとしている。金を積んでも、効果はない。
ウルグァイ・ラウンド対策と同様、今回も規模拡大や農業の合理化は進まない。また、農業公共事業に大幅な金が積まれるのだろう。民主党の戸別所得補償の財源をねん出するため、小沢一郎氏によって、農業公共事業は大幅に削減された。これを復活することは、自民党農林族の悲願だからである。また、基盤整備ではなく、集落排水のような農業とは直接関係のない事業が、推進されるのだろう。
もちろん、TPPが農業に影響がないと言ってしまえば、「甘利大臣が交渉をよくやった」で、終わってしまう。自民党農林族議員の出番はない。自民党にとって、来年の参議院選挙を勝ち抜くためにも、農業対策は必要がなくてもやらねばならないのである。無駄な税金を使われる被害者は、国民である。