先週再び実家に戻った。7月末の鎌倉は異様に暑い。横須賀線内は若い海水浴客ばかり。周囲40人ほどの大半はスマホに見入り、昔ながらに文庫本を読む人は3人しかいない。改めて自分はもう若くないと痛感した。暑さの中で予定より早く着いたら、何と実家は留守。母は買い物にでも行ったのか。しまった、実家の鍵は持っていない。今回の話はここから始まる。
相手が女房なら携帯で早く帰れと頼むのだが、あいにく母は携帯電話を持ち歩かない。昭和初期生まれの彼女はその必要性を感じないのだ。おかげで酷暑の中、実家門前で1時間近く閉め出しを食った。「初老男、熱中症で入院」という悪夢が頭をよぎる。ぼーっとする中でいろいろ考えた。外出中連絡が取れない母の世代に比べれば、筆者夫婦は昭和30年前後生まれ。ワープロとポケベルを使い始めた世代だ。文章入力は英語キーボードだが、仕事の連絡はFAXが主流だった。当時時間はもっとゆっくり流れていた気がする。
ところが筆者の子供たちの世代になると、日常的に扱う情報量が急増する。連絡はケータイの文字入力だったが、筆者には彼らの親指の動きが神業に見えた。今やわが家の子供たちは親に電話などかけてこない。連絡は専ら「ハングアウト(複数人で利用できる交流サービス)」、これなら全員で集まる日時がすぐ決まる。1980年代生まれの彼らはいわゆる「ミレニアル世代」前期だが、今や若者の主流はミレニアル後期に移っている。スマホで常時高速大容量インターネットとつながる彼らは、筆者の世代ですら想像不能の新生活を始めている。異なるのは使用する機器の種類や能力だけではない。
幼い頃からデジタル機器やインターネットに接してきた彼らミレニアル世代は現在18~34歳。個人主義的傾向が強かったそれまでの世代に比べ、彼らは共同体帰属意識が強く、社会奉仕活動にも積極的だといわれる。一方、米国の調査会社によれば、彼らは今も4人に1人が家族と同居し、テレビ離れが進み、ネット世界に没頭する傾向が強いという。さらに、サイモン・ウィーゼンタール・センターによれば、現在ネット上には事実上若い世代しか入場できない空間で、テロリスト勧誘や差別発言、ヘイトスピーチが飛び交っており、政府はもちろんのこと、両親や兄弟でも止められないという。
要するに、母、われわれ、子供たち、孫たちという4世代で考えると、同じ24時間を使う場所、方法だけでなく、喜怒哀楽の性質までもが大きく異なり、各世代間で大きな断絶があるらしいのだ。人生80年の高齢化社会が進む中、情報技術も高度化しつつある。4世代が同時代に生きていながら、もはや生活を共有できなくなっているのが現代なのか。それでは、この断絶化社会の中で、各構成員が一体感、連帯感、国民としての意識、責任感を持ち続けるにはどうしたらよいのだろう。
救いがないわけではない。まずは各世代に必ずいるはぐれ狼の存在だ。昭和初期生まれでもスマホを自由に操る人々は多い。逆に若い世代でも昔のことに深い興味と関心を持ち、国家の将来を真剣に考える人たちも少なくない。彼らの天性の好奇心は断絶しているやに見える各世代をつなぐ懸け橋となるだろう。
しかし、少数の人々だけに依るべきではない。これまで情報技術の進歩が日本人各世代の断絶を促進したのだとしたら、同じ技術で状況を改善することも可能なはずだ。各種ソフトを開発する際は、個人の利便性だけでなく、社会的連帯をも最大化する革新技術も世に問うてほしい。
最後に、何よりも重要なことは日本社会が21世紀の荒波を生き延びるための覚悟と能力を持つことだろう。政治には期待しないと女房は言うが、これこそ国会などの場で議論してもらいたいものだ。