メディア掲載  財政・社会保障制度  2015.05.18

ほとんど語られない大学生活のもう一つの意義-四六時中スマホをいじるのをやめる、それが自己統治の自由への一歩だ-

WEBRONZA に掲載(2015年4月17日付)

 信州大学の山沢清人学長が、入学式で新入生に対して「スマホやめますか、信大生やめますか」と呼びかけて話題になっている。スマホをやめて、本を読み、友達と話をし、自分で考える習慣をづけ、ものごとを根本から考えて全力で行動することが独創性豊かな学生を育てる、と語った。

 信州大学のホームページにアップされた学長あいさつを読んだが、確かに正論である。しかし、大学に身を置くようになって間もないわが身を反省すると、とても「スマホをやめなさい」とまでは自信をもって言い切れない。だが「スマホをやめる『自由』を大事にしよう」とは言えるかもしれない。

 学生がスマホを捨てたくなるほど魅力的な教育を大学が学生に提供できているか。いやそもそも大学の主たる役割はいったい教育なのか学術研究なのか、どっちなのか。


■難しい教育と研究のバランス
 私は大学人になって2年余りの新人だが、まだまったく教育と研究のバランスが分からない。自分は経済学という学問を追究するために大学に来たのだから一義的には学術研究が第一だと思っているのだが、そうすると限られた時間で教育の準備が十分できなくなる。逆に教育の準備を納得いくまでやろうとすれば、研究がおろそかになる。

 いきおい、教育と研究の矛盾を解決するために「自分(教員)が研究する姿を学生に見せ、そこから学生が学問の心構えやノウハウを学びとればよい。それが教育なのだ。」という昭和の日本企業的なというか徒弟制度的な「俺の背中を見ろ」という精神主義に行くしかなくなる。

 こんな理屈では到底いまの学生は納得しないだろう。講義中にスマホをいじる学生は減りそうもない。

 本当は、もっと科学的に教育と研究の分業体制を大学という組織の中で制度化するべきなのではないか。「大学の教員というのは一種の『個人商店』だ」と大学教授の大先輩から言われたことがある。教育も、研究も、事務仕事もすべて教授が自分自身(または個人的なつながりのある弟子などの関係者)でやるのが日本の大学の基本形で、大学からシステムとして提供されるサポートが弱い場合が多い。


■米国の大学では暗黙の区別も
 一方、米国の大学では、教育と研究の効率を上げるために、「教育専門の教員」と「研究専門の教員」を暗黙に区別して採用していて、彼らには給与等の待遇にも差があるらしい。

 教育専門の教員は研究をせずに教育に専念する教師なので、学部レベルの学生の学びを指導する専門性が高まる。彼らは面白い授業をして学生の意欲を高めるエキスパートである。他方、研究専門の教員は、初等的な教育はせずに研究に専念し、最先端の論文を執筆する。また、後進の研究者を育てるため、おもに大学院生の研究指導などを行う。

 こういう分業体制をおいて専門性を高める人事システムがあるから米国の大学は教育機関としても研究機関としても世界トップレベルの評価を受けることができるのだろう。個人商店の教授の寄せ集めのような日本の大学ではシステムが近代化できていないので、いくら個々の教員が優秀でも効率が上がらないのではないだろうか。

 教育と研究の両立という難題を抱えて結果的に教育に全力を投入できない教員が多いのなら、日本の大学生がやる気を失って、スマホから実利的な知識を吸収しようとするのも仕方ないことなのかもしれない。実際、実社会で役に立つ豆知識的な情報ならスマホを見ている方が大学でものを考えるよりも得やすいだろう。

 ところで、以上は、大学の抱える問題のひとつ(ほかにも大学には多くの問題があるが)を指摘したのであって、信州大学の山沢学長の議論が正論であることを否定する気はない。

 教育と研究は時間を奪い合う関係にあるといっても、決定的に相いれない活動ではなく、むしろ補完的な役割もある。学者は、若い人に教えることによって自分自身の理解が深まり新しい発想も湧く。学生からの素朴な質問によって学者自身が新たな論点を発見することもある。また学生は、自分の頭を使って研究することで人生を乗り切る武器となる「考える力」を得る。スマホから得る知識より考える力が重要なことは山沢学長の言うとおりであり、だからスマホをやめようと呼びかけるのは一理ある。


■学生が自発的に研究するという営為の意味
 だが、もう一つ見落としてはならないことは、(スマホの情報であれ、学問の知識であれ、「考える力」であれ、)なにかを学生が大学生活から「受け取る」のは結果であって、それ自体は大学生活の目的ではないかもしれない、ということだ。たぶん山沢学長も同じことを言いたかったのではないか、と思うが私の言葉で説明すると以下のようになる。

 学生が自発的に研究するという営為は、課題を自分で発見し、課題解決に向けた仲間との役割分担や資源投入を自分たちで組織化し、結果に向けて自分たちで決めた手順を実行していく、というプロセスであり、自分の行動すべてを自分で決めて制御するという意味でこれは「自己統治」である。

 この営為の一つの大きな意義は、自己統治の自由を体感することにほかならない。これは勉学だけではなく、大学での生活全般について言える。たとえばゼミやサークルの運営は、学生が自分たちでルールを決め、それでお互いを拘束しあい、その中で自発的なルール順守を覚えるなど、自己統治を経験する活動である。


■ほとんど語られない自己統治の重要性
 このような自己統治の経験がどれほど重要なことか、日本の社会ではほとんど言葉にして語られることはなく、あまり意識されてこなかったようだ。一部の、西洋政治思想などを研究する専門家などの間で比較的よく知られているくらいである。

 政治学者や政治思想学者にとってはお馴染かもしれないが、私のような経済学者がほとんど意識しないことに、「積極的自由」と「消極的自由」の違いがある。

 与えられた選択肢の中で欲しいものを選ぶ自由が「消極的自由(または選択の自由)」だ。 買い物に行って商品を選ぶ消費者や企業の選択が代表的である。経済学者が使う自由の概念は例外なく消極的自由だ。

 一方、ハーバード大学の政治学者マイケル・サンデル教授によると、古典的政治思想における自由(積極的自由)は、本質的に、ギリシャ時代から「自己統治に参加できる自由」であった。自分が住むポリスの政治に参加し、自己決定できるということが市民にとっての本質的な自由であり、かけがえのない価値であった。


■生きる実感と責任感
 商品を選ぶ自由よりも、自分たちでルールを作り、自分たちがそれを守って何かを成し遂げようと行動する自由は、人間にもっと大きな生きる実感と責任感をもたらす。それは現代のさまざまな組織やチーム(自治体、企業、市民団体など)においても成立する。

 企業でいえば、従業員ひとりひとりが自分の職場のあり方を自己決定できる自由を持つことは、従業員に満足感をもたらすだけでなく、チーム全体に対する強い責任感を必然的に作り上げる。従業員の責任感が強まれば、結果的にチームの生産性は大きく高まる。

 つまり、自己統治の自由を体感し上手く使いこなすことは、社会生活の真の原動力なのだ。自己統治の自由を使いこなすための最初の経験を積むのが大学生活である。この経験だけは、スマホではできない(さらに言えば、読書による勉強だけでもできない)。

 スイッチひとつで消えない生身の人間を相手に、議論し、説得し、納得し、物事を決めていく、という経験が、自己統治の自由に習熟するための学習プロセスなのだ。

 自己統治の自由を経験し、使いこなせるようになるかどうか、はその後の人生を実り多いものにできるかどうかを分ける大きなポイントになる。しかし、これは教室での講義で教えることはできないし、書籍に文字で書いてあることがらでもない。自分で「プロジェクト」を見つけ、参加し、その経験の中で発見するしかない。その第一歩は、四六時中スマホをいじるのをやめる、という自己決定(自由の行使)ではないだろうか。