メディア掲載  外交・安全保障  2015.04.27

孔子の国の儒教知らず

産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2015年4月23日)に掲載

 先週末、久しぶりに故郷へ帰った。といっても、そこは鎌倉、東京から電車で約1時間の距離だ。その懐かしい町で「論語の教えと日中友好の道」と題する講演を頼まれた。およそ筆者にはふさわしくない高尚なテーマ。主催は地元の「論語の教えを広める会」、なぜか鎌倉市の教育委員会や日中友好協会などから後援名義まである。そのせいか親類やご近所さまから高校の先輩までが聞きに来てくれた。慣れない演題と勝手知ったる聴衆、これほどやりにくく緊張した講演会は久しぶりだった。しかも、主催者からは事前に論語の現代語訳など膨大な資料が届いた。ちゃんと勉強せい、ということだ。必死で目を通していたら意外なことに気付いた。それは儒学を生み、孔子学院を輸出する今の中国こそが、論語の基本的教えに最も反しているという皮肉な事実だ。講演の中で指摘したその典型例を幾つかご紹介しよう。

 ●政を為(な)すに徳を以(もっ)てす(為政編、政治を行うには常に道徳を基本とすべし)
 この有名な一節を読んで中国が西洋文化を受け入れない理由が改めて分かった。「徳」による政治を理想とする中国が為政者「性善説」であるとすれば、全知全能の神が不完全な人間と契約を結ぶ一神教の世界では基本的に為政者「性悪説」なのだ。欧米型民主主義では為政者に対するチェックを怠らないが、善政を為政者の「徳」に依存する儒教では為政者自身の自律が厳しく求められている。

 ●君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る(里仁編、君子は道義により理解するが、小人は利害関係から理解する)
 不正・腐敗が蔓延(まんえん)する今の中国指導層に「徳」が欠けていることは明らかだ。君子自らが利に喩り、小人がこれに続く、が中国の実態である。

 ●過ちは則(すなわ)ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ(学而編、過失があれば体面など考えず直ちに改めるべきだ)
 典型例は尖閣問題だ。1969年発行の中国の公式地図には「尖閣群島、(日本の呼び方である)魚釣島」が明示されている。南シナ海領有権の根拠たる「九段線」にも国際法上正当性はない。今も中国は伝統的な「華夷」秩序の世界観を克服できていない。過ちは改めるべきだ。

 ●仁者は必ず勇有り。勇有る者は必ずしも仁有らず(憲問編、仁者には必ず勇気があるが、勇者に仁があるとはかぎらない)
 最近の人民解放軍幹部の好戦的、挑発的言動には「仁徳」が感じられない。南シナ海、東シナ海の日米艦船の航行を物理的に妨害したり、火器管制レーダーを照射したりする行為は「勇有れど仁有らず」の典型である。中国政府の国務院総理が指揮権を持たない人民解放軍が、戦前の帝国陸軍の過ちを繰り返さないという保証などないのだ。

 ●民は之(これ)に由(よ)らしむ可(べ)し、之を知らしむ可からず(泰伯編、民衆に範を示し、従わせることは可能だが、道理を示し理解させることは難しい)
 この一節を一部の日本人は「民は依存させよ、知らせてはならない」と誤訳してきた。「可し」は可能・推測の意であり、この解釈は明らかに誤りだ。興味深いことに、この誤訳をそのまま実践しているのが今の中国である。

 以上要するに、2500年前に孔子が唱えた教えを日本人が今も学び広めているのに対し、本家の中国で儒教は廃れ実践されていないらしいのだ。一時は世界120カ国で440校あるといわれた孔子学院も昨年秋頃から米国で廃校が相次いだという。

 中国政府の宣伝機関にすぎず、教育機関としての中立性を欠いているからだそうだ。筆者が大学生だった1970年代前半、文化大革命中の「批林批孔(林彪と孔子を批判する)」運動で中国儒教は大打撃を受けた。今論語を真剣に読み直すべきは中国人、特に現代の「君子」である中国共産党の指導者たちではないだろうか。