メディア掲載  グローバルエコノミー  2015.04.15

アベノミクス農政改革の総括(第1回)

「週刊農林」2015年4月5日号掲載

 アベノミクスは、農地の中間保有機構等による農業所得倍増、減反政策の見直しから、今回の農協改革など、農政改革を次々に打ち出している。本稿では、今回の改革に重点を置きながら、これらの政策見直しについて評価することとしたい。その前提として、農業・食料政策の目的とは何か、これまでの政策はその目的にかなうものだったのかについて、触れたい。

農政の目的は何か?

 安倍政権は農業所得倍増を唱えている。農協改革について、西川農林水産大臣(当時)は"農家所得の向上"の観点を強調した。ここで、農業所得と農家所得とは同じではない。酪農家のように、所得をほとんど農業から得ている場合は、この二つはほぼ同義であるが、米作農家のように、ほとんどが兼業農家や年金生活者のような場合には、農業所得の占める割合はごくわずかであり、農家所得は農業所得と一致しない。

 農林水産省など政府文書では農業所得と書かれ、政治家は農家所得に言及する。農家の多数を占める米作農家の場合、農業所得をいくら倍増したとしても、兼業農家等の農家所得は増加しない。これらの農家の所得を向上しようとすると、農政ではなく、トヨタなどの兼業先に賃上げを要請した方が効果的である。また、兼業農家等に退出してもらって、主業農家に農地を集積した方が、コストが下がるので、米産業全体の農業所得は向上する。しかし、政治家の場合、水田は票田である。政策的な根拠もなく、農家所得を上げるのだと言った方が、票につながる。もちろん、構造改革が進み、兼業農家等がいなくなってもらっては困る。所得の向上については、政府と政治家の同床異夢である。

 しかし、そもそも、農業所得であれ、農家所得であれ、なぜ農業や農家だけが特別に所得を保障されなければならないのだろうか?町の商店街はシャッター通り化している。就職氷河期の影響を未だに受けている人たちもいる。それなのに、これらの人たちには、政治は手を差し伸べようとはしない。

 農業には国民の生命維持に不可欠な食料を供給する役割があるからとしか、答えようがない。つまり、食料の供給が第一義的な農政目的であって、その限りにおいて、農業に従事する農家の所得を確保すべきだという主張が出てくるにすぎない。農地を転用すれば、また減反で米価を高くすれば、農家は潤うが、農地資源は減少し、食料安全保障は損なわれる。農家所得自体は、農政の目的ではない。

 1900年に農商務省に入省した柳田國男は、関税を導入し、米の輸入を抑制することにより、高い米価を実現しようとした地主勢力に対し、消費者のことを考えると、安い輸入米を入れても、食料品の価格を下げるべきだと主張した。農家の所得を向上するなら、米価を上げるのではなく、規模を拡大し、生産性を向上させ、コストを下げるべきだと主張したのである。

 戦前小作人解放に尽力した石黒忠篤農林大臣は、農民を前に「農は国の本なりということは、決して農業の利益のみを主張する思想ではない。所謂農本主義と世間からいわれて居る吾々の理想は、そういう利己的の考えではない。国の本なるが故に農業を貴しとするのである。国の本たらざる農業は一顧の価値もないのである。」と述べる。石黒にとって、国の本たる農業とは、国民に食料を安く安定的に供給するという責務を果たす農業だった。

 減反の主張に、陸軍省は安全保障の見地から異を唱え、これを止めさせた。食料供給が主または本だという明確な認識があった。しかし、食料危機が遠のき、飽食の時代が叫ばれて久しい今日、農政は食料供給という本たる目的を忘れ、農家所得を主たる目的としている。農業票獲得のためには、食料供給よりも農家所得向上を叫んだ方が得である。戦前実現できなかった減反政策は、40年以上も継続されている。

農政は"農業"を保護してきたのか?

 我が国の農政は、食料安全保障や多面的機能の増進どころか、それを損なってきた。その典型が、減反(供給制限)によって行われている高米価政策である。多面的機能のほとんどは、水資源涵養、洪水防止といった水田の機能である。しかし、減反によって、40年以上も水田を水田として利用しないどころか、食料安全保障や多面的機能に必要な水田を潰してきた。

 高米価・減反政策は、非効率でコストの高い零細な兼業農家(貧しくない小農)を米作に滞留させて、農地が主業農家に貸し出されることを、妨げてきた。主たる収入が農業である主業農家の販売シェアは、酪農で95%、野菜や畑作物では82%にもなるのに、米だけ38%と極端に低い。農家の7割が米を作っているのに、農業の2割の生産しかしていない。いかに米が非効率な産業となってしまったかが分かる。これこそが日本農業の最大の問題である。農政は、主業農家が規模を拡大して生計を豊かにしようとするのを、妨害してきた。米価が高いので、消費も減退した。その結果、米農業は衰退した。

 高米価・減反政策を強力に推進してきた農協は、本来、農業資材を安く購入するために農家が作った組織のはずなのに、独占禁止法の適用を受けないという特権を利用して、アメリカの倍もする肥料、農薬、農業機械、飼料などの資材を農家に押し付けてきた。農業生産に必要な資材が高くなれば、コストが高くなるので、農産物価格も高くなる。農協が、日本農業の高コスト体質を作り上げてきた。

 国際競争力がなくなるのは、当然だろう。国際価格よりも高い農産物価格を維持するためには、海外からの輸入農産物に高い関税をかける必要がある。農産物価格、つまり食料品の価格が上がって、困るのは、消費者だが、国会の農林水産委員会も含め、農政共同体の人たちは、誰もそんな心配はしない。

 こうして高い関税で、国内の農業資材や農産物の価格を高くすれば、これらを販売する農協は、それに比例して多くの販売手数料収入を得ることができる。逆に、関税がなくなり、価格が下がれば、販売手数料収入は減少し、農協経営を圧迫する。日本の農業のコストを上げ、国際競争力を失わせること、つまり弱い農業は、農協にとって好都合だった。

 最も保護されてきた米が、日本農業の中で最も弱体化した。米は50年前までは農業生産額の半分を占めていたのに、今では、畜産にも野菜にも抜かれ、2割のシェアを維持できるかどうかの農業となってしまった。米はコスト高となり、海外との競争力は失われていった。高い関税で守るしかない、ひ弱な産業となった。

 戦後、人口わずか7,000万人で農地が500万ha以上あっても、飢餓が生じた。農家が自らの資産運用のため、あるいは地方が地域振興のためだと称して宅地や商業用地に転用したいと言っても、勝手に処分を認めてはならない。それが食料安全保障の考え方であり、そのために農業には手厚い保護が加えられてきたはずだ。

 それなのに、大量の農地が失われた。農地面積のピークは1961年の609万haである。その後、公共事業等により110万haの農地造成を行い、719万haの農地があるはずなのに、農地は454万haしかない。1961年にあった農地の4割を超える265万haもの農地が転用と耕作放棄で消滅した。

 農地法の転用規制や農振法のゾーニング規制は、厳正に運用されなかった。戦後の農地改革は、10aの農地を長靴一足の値段で地主から強制的に買収して小作人に譲渡するという革命的な措置をとった。しかし、それで小作人に解放した194万haをはるかに上回る農地が、農業界によって潰された。農地を農地として利用するからこそ農地改革は実施されたのであって、小作人に転用させて莫大な利益を得させるために行ったのではないはずだ。

"逆進性"の塊の関税政策維持が国益?

 関税で守っているのは、国内の高い農産物=食料品価格だ。国際価格よりも国内の価格を高く維持する以上、関税が必要となる。例えば、消費量の14%しかない国産小麦の高い価格を守るために、86%の外国産小麦についても関税(正確には農林水産省が徴収するマークアップと呼ばれる課徴金)を課して、消費者に高いパンやうどんを買わせている。国内農産物価格と国際価格との差を財政からの直接支払いで補てんするだけで、農業は保護できるし、消費者にとっては、国内産だけでなく外国産農産物の消費者負担までなくなるという大きなメリットが生じる。

 米はもっとひどい。財政負担をするなら、国民に安く財・サービスを提供するのが、普通の政策である。ところが、米政策は、農家に4千億円の減反補助金という納税者負担を行って、米の供給を制限し、米価を吊り上げて6千億円の消費者負担を強いている。2兆円の産業に1兆円の国民負担を強い、さらに食料安全保障や多面的機能も脅かしている政策の根拠はどこにあるのだろうか?

 多くの政治家は、貧しい人が高い食料品を買うことになる逆進性が問題だとして、消費税増税に反対した。食料品の軽減税率も検討されている。その一方で、関税で食料品価格を吊り上げる逆進性の塊のような農政を維持することは、国益のようだ。軽減税率導入の徴税コストを考えるのなら、関税を撤廃して食料品価格を引き下げるべきではないのか。農政は、国民消費者への食料の安定供給という本来の目的を忘れてしまったのだ。(つづく)