メディア掲載  外交・安全保障  2015.04.01

日本の世代交代を考える

産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2015年3月26日)に掲載

 先週末、興味深いフォーラムに招かれた。仙台で開かれたG1(ジーワン)サミットなる会合だ。G7のような国際会議ではない。日本国内の政治、ビジネス、文化芸術、技術、メディアなど各界で活躍する若手リーダー250人が集まった。全体会議と分科会を組み合わせた日本版「ダボス会議」だ。G1の含意はグローバルなジェネレーションが一つになることらしい。
 興味を持ったので主催者に参加条件を尋ねたら、「昭和30年生まれ以降」と言われショックを受けた。28年生まれの筆者はアウトだからだ。なぜ30年なのかと聞くと、「そこら辺が目安」なのだという。おいおい、60歳を過ぎれば28年生まれも30年生まれも変わらないぞ。それはともかく、ゲスト・参加者のレベルは非常に高かった。
 平均年齢は40代だろうか、中核は1960年代生まれだ。共に学び、日本再生に向け行動し発信するという、1世代下の若きエリートたちの自信に満ちた姿を見て、己が年取ったことを痛感した。同時に1950年代生まれの筆者の世代の責任についても深く考えさせられた。
 出席する分科会の直前に60年代生まれのモデレーターから面白い話を聞いた。参加者の中核は1955年(昭和30年)生まれ以降の「ノンポリ(政治的無関心)」世代後期のいわゆる「バブル」世代だという。なるほど、筆者が大学に入った73年当時、一部の大学を除き学生運動は既に下火となっていた。筆者より前が全共闘世代、後がノンポリ世代というわけだ。60年安保の世代から長く続いた戦後日本の左傾化は全共闘世代で終わった。それ以降は政治的に中立のノンポリ世代・バブル世代が続き、ロスジェネ世代以降は若者の政治的保守化が進んでいるとの分析もある。
 米国にも似たような流れがあった。戦後ベビーブーマーの中でリベラルと保守に鋭く分裂したのがベトナム戦争期に高校生・大学生だったベトナム世代だ。彼らは日本の全共闘世代にほぼ相当する。これに続くのがミー世代(X世代)、60~80年代生まれの彼らは政治的無関心と個人主義的傾向が特徴だ。さらに21世紀に成人・社会人となった80~2000年代生まれはミレニアム世代(Y世代)と呼ばれる。情報・ITに優れ、自己中心的だが保守的で、他者の多様な価値観を受け入れる傾向がある。日本ではポスト団塊ジュニアの世代だろう。
 詳しく世代論を書いた理由はほかでもない。今回G1サミットに参加して、50年代生まれの筆者を含むノンポリ世代前期には重要な使命があると考え始めたからだ。その使命とは戦後全共闘世代まで続いた空想的平和主義を克服する一方で、この日本を、自己主張は強いが政治的にはより健全な60年代生まれのノンポリ後期世代に引き継ぐことではなかろうか。
 今の日本には人口減少、経済低成長、潜在的脅威の増大など問題が山積みしている。日本がこうした試練を生き抜くためには世代間の円滑な引き継ぎを成功させる必要がある。失礼ながら、その失敗例が全共闘世代であり、その象徴が民主党の鳩山由紀夫、菅直人両首相だった。ベトナム世代のクリントン、ブッシュ両大統領がそれなりの統治を行ったことに比べれば、日本の全共闘世代はどこか見劣りする。やはり、実際に戦場に送られる恐怖と戦った米国人学生と、戦争はひとごとだった日本の反戦学生との違いなのだろうか。全共闘世代の無責任政治を継いだのがノンポリ世代前期の野田佳彦、安倍晋三両首相であったことは決して偶然ではないだろう。
 G1サミットの行動指針は批判より提案を、思想から行動へ、リーダーとしての自覚を醸成することだという。筆者は次世代の能力を信じたい。我らが世代の責任は、ようやくまっとうな国になり始めた日本を次世代に円滑に引き続ぐことだと思っている。