いつか起こるのではないかと恐れていた事態がついに起きた。ISIL(「イスラム国」)に拘束されていたジャーナリストの後藤健二さんが殺害されたのだ。湯川遥菜さんに続いて後藤さんも殺害されたことで、ISILに拘束された日本人が2人とも死亡するという最悪の結果になってしまった。ご遺族には心からお悔やみを申し上げたい。
「72時間以内に2億ドルの身代金を払わなければ人質を殺害する」に始まったISIL側の要求は、その後、ヨルダンで拘束されているサジダ・リシャウィ死刑囚との人質交換へと変化し、最後はリシャウィ死刑囚の釈放と引き換えに、後藤さんに加えてヨルダン空軍パイロットのムアズ・カサースベ中尉を解放する、というものになった。しかも最新の報道によると、カサースベ中尉は、このような条件をISILが出したときには、既に殺害されていたようであり、檻の中に入れられた状態で生きたまま焼かれるというむごたらしい方法で殺害されたビデオが公開されていることが分かった。
■アメリカでも注目 異例のオバマ大統領声明
安倍総理のこの事件への対応は一貫していた。湯川さんと後藤さん2人がオレンジ色の囚人服を着せられて映っているISILによるビデオ映像が全世界を流れたとき、中東訪問中だった安倍総理は、ビデオ映像が公開されたあと、すぐに訪問先のイスラエルで記者会見を行い、「人命を盾にとって脅迫することは許し難いテロ行為で強い憤りを覚える。2人に危害を加えないよう、直ちに解放するよう、強く要求する」と述べた。その後も、「テロに屈しない」姿勢は揺らぐことがなかった。後藤さんの殺害が確認された後の声明では「テロリストたちを絶対に許さない。その罪を償わせるために国際社会と連携してまいります」と述べた。このような事件で実行犯に「罪を償わせる」意思を明確にした声明を出したのは、日本の総理大臣としては初めてではないだろうか。
今回のISILによる邦人拘束事件は、アメリカでも大きく注目された。「テロとの戦い」を国家安全保障政策の最優先課題に位置付けるオバマ政権からのメッセージも早かった。後藤さんの殺害が確認された数時間後には、ホワイトハウスから「後藤健二の殺害に関する大統領声明」という題名のオバマ大統領からの声明が出され、同じく数時間後にはジョン・ケリー国務長官も自身のツイッターにお悔やみの言葉を書き込んだ。特に、「大統領声明(Statement by the President)」というタイトルが付けられることが一般的なオバマ大統領の声明に具体的な件名がつくことは異例だ。
■国際社会で一定の役割を果たすことを目指す以上テロは日本にとって他人事ではない
既にお2人が亡くなるという結果が出てしまった以上、どのような対応をすべきだったのかについて議論し続けても「たら」「れば」論の応酬にしかならない。これからの日本に求められているのは、いくつかの問題について今後、日本が一独立国家としてどうかかわっていくべきかをしっかりと議論することである。
第一は、テロリズムという脅威に対して日本がどのような姿勢を取るかである。日本がこれまでテロの被害と全く縁がなかったわけではない。よど号ハイジャック事件や、オウム真理教による地下鉄サリン事件、ペルー日本大使公邸占拠事件などを経験してきている。それでも2001年の9.11以降続いているイスラム教過激派集団によるテロ事件については、日本はこれまでどこか他人事のように考えてきたフシがある。そのため、10年前の自衛隊によるインド洋での給油活動やイラクでの復興支援活動についても、「自衛隊を出せば日本がテロの標的になる」といった的外れの批判がまことしやかに行われてきた。今回も、安倍政権が打ち出した中東支援策が、事件の引き金になったというような批判が行われている。
しかし、批判の対象になっている安倍政権による中東支援策は、人道支援や、インフラ支援など、いわゆる軍事的支援とは真逆の性質のものだ。しかも、日本は、現在、米英が主導するISILに対する空爆をはじめとする軍事作戦には一切、参加していない。むしろ、今回の事件ではっきりしたのは、国際社会で日本が一定の役割を果たすことを目指す以上、テロは日本にとっても他人事ではないという冷酷な現実ではないだろうか。
「危ないから」といって他国とのかかわりを最小限にし、国際社会でもほとんど顧みられない存在になることを望むのか、それとも、ある程度のリスクは覚悟して「国際社会の安定と繁栄」という目標のために経済支援など様々な施策を通じて積極的に他国と関わっていくことで、日本の国際社会での地位を確立していくのか。テロとの戦いが国連総会や安保理をはじめとする、あらゆる多国間会議で取り上げられるような重大問題になっている以上、テロにどのように対峙するのかは、国際社会での日本のあり方として何を目指すのかに直結する大問題なのである。
■世界ではほとんど聞かれない「自己責任論」
第二に、日本政府の日本国民の生命を守る責務についても議論される必要があるだろう。湯川さんと後藤さんの2人がISILに拘束されていることが明らかになってから、彼らが、外務省がすでに退避勧告を出しているにもかかわらずにシリアに向かったことに対する「自己責任論」が多く聞かれた。つまり「渡航延期勧告を無視して行ったのだから、何が起こっても本人の責任」であり、政府が解決に国民の税金を使う(例えば身代金を払う)ことについては批判的な議論である。
実は、この「自己責任論」は日本以外の国ではほとんど聞かれない奇妙な議論である。アメリカでも、海外の危険な場所に政府からの渡航警告にもかかわらずに種々の理由で赴き、事件に巻き込まれたり、命を落としたりするケースは多い。
なんといっても、昨年8月から9月にかけてISILがその残忍な殺害の様子をビデオで公開したジェームズ・フォーリー、スティーブン・ソトロフ両氏は、アメリカ人のジャーナリストだ。アメリカの国務省も、日本の外務省と同じようにシリアに対しては渡航情報の中で「全土にわたって危険な地域」という形容をしており、昨年9月12日には渡航警告のレベルを「シリア国内の米国人は直ちに出国するように。いかなる理由でもシリアへの渡航は控えるように」というレベルに引き上げている。それでも、殺害されたフォーリー氏やソトロフ氏に対して「自己責任なのだから」といった批判は全くといっていいほどなかった。むしろ出ていたのは「米政府は彼らを救出するために軍の投入も含めてできたことがあったのではないか」といった批判である。
一見、当たり前に見えるかもしれないが、「自己責任論」には「本当に非難されるべきは誰なのか」という視点が完全に欠落している。さらに、「日本国内に住んでいない日本人」に対する同胞意識の薄さもにじんでいる。「いかなる理由であれ、海外でトラブルに巻き込まれた日本人の身柄の安全を確保するために最大限の努力をするのが日本政府の国家としての責任ではないか」という視点からの議論がもっとされてもいいのではないだろうか。
■日本の「国家としてのあり方」を考える議論を
また、今回の事件を契機に「自衛隊にも特殊作戦能力を」「海外諜報機関の設置を」といった議論も噴出しているが、これにも注意が必要だ。自衛隊が海外まで日本人を救出に行くことができるようになるためには、ただ、自衛隊法を修正すればよいというものではない。そのために必要な能力を取得するための訓練や、人事面での見直し、必要な予算の確保など、様々な措置が必要になる。情報機関の再編についても同様だ。前掲の「日本はどのような国家であろうとするのか」を考えていく上で、その中での自衛隊や対外情報機関の役割について大局的な観点から考えていく際に議論されるべき問題だ。一時の感情に任せて、対症療法的な視点から議論するべき問題ではないだろう。
いずれにしても、今回の湯川・後藤両氏の拘束・殺人事件は、日本政府だけでなく日本国民に対して「積極的平和主義」への覚悟が今一度問われた事件であるといっていいだろう。今回の悲劇を受け、今後、日本国内でどのような議論が行われるのか、期待したい。