メディア掲載  外交・安全保障  2014.08.19

民主主義と民族浄化

産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2014年8月14日)に掲載

 再びイラクで悲劇が起きている。北部シリア国境付近の山岳地帯でイスラム過激派の攻撃を逃れた少数民族が孤立し、次々と亡くなっている。国連児童基金は先週、数万人の子供たちが飲料水、衛生設備など人道援助を緊急に必要としていると発表した。2011年の米軍撤退以来不介入を決め込んだオバマ政権も、ついに空爆などによる再軍事介入を決断した。一体何が起きているのか。

 冒頭のイスラム過激派とはもちろん「イスラム国(IS)」だ。筋金入りのスンニ系サラフィー・ジハード主義集団で、以前は「イラクとシャームのイスラム国」と名乗っていた。本年1月に西部ファルージャを制圧、6月に北部モスルを陥落させ、急速に支配地域を拡大している。

 ISの特徴はその機動性と残虐性だ。モスル制圧後バグダッドへ向かうと思われたが、最近はクルド自治区を含むより軍事的に脆弱な地域を迅速かつ集中的に攻撃し成功している。イラクはもちろん、欧米の情報機関もISの軍事・行政能力を過小評価したようだが、今回のテーマはISの強靱さでも、米軍再介入の是非でもない。日本では米国のイラク空爆長期化ばかり報じられるが、今筆者の最大の関心事はイラク北部に住むヤジド派とか、ヤズィーディ、ヤズディなどと呼ばれる人々の運命だ。

 英語に「エスニック・クレンジング」なる言葉がある。日本語では民族浄化、民族洗浄などと訳される。一般に、複数の民族集団が共存する地域で、ある民族集団を強制的にその地域から排除しようとする動きを指す。1990年代の旧ユーゴ内戦時から使われ始めたが、今イラク北半分ではこの民族浄化が静かながら確実に進行している。

 今回ISの攻撃を受けニネベ州シンジャルから山間部に逃れた少数派Yazidi教徒の母国語はアラビア語ではなくクルド語だ。Yazidiとはイラク北部などに住むクルド人の一部が信仰する民族宗教で、イラクのイスラム化以前から独自の聖典を持っていた。イスラム教、キリスト教、ゾロアスター教の影響を受けており、天使ターウースを信じる。当然ISはこれを邪教扱いし、迫害したということだ。

 問題はイラクのISにとどまらない。現在中東各地では少数派が多数派の迫害を受け、住み慣れた故郷を離れ難民化するケースが続出している。皮肉なことに最大の理由は中東で独裁国家が崩壊し、民主主義的な「多数決の原理」が浸透し始めたからだ。王制にせよ、共和制にせよ、独裁政治の下で少数派は優遇されてきた。特に、少数派が多数派を支配していたシリアやイラクではそれが顕著だった。

 ところがイラク戦争とシリア内戦で状況は大きく変わった。民衆のために独裁政治を打倒するはずだったのに、イラクでは民主主義が機能せず、シリアでは多数派のイスラム過激主義が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)した。結果的に従来の国境は消滅し、オスマントルコ崩壊後に英仏が作ったアラブ国家の2つが多数の宗派別地域集団に分裂していったのだ。

 各地域集団内では特定の宗派が多数派となる。かたくなに伝統を守ってきた少数派は「多数決ルール」を認めず徹底抗戦するが、少数派を優遇しない地域集団内に彼らの居場所はない。少数派は徐々に差別され迫害され最終的には放逐される。今回のイラク北部の悲劇は死傷者を伴う悲惨なものだったが、これ以外にも流血を伴わない「静かな民族浄化」は今も中東各地で起こっていると考えるべきだ。

 同様の事態は近代以降欧州でも起きたという。されば現在中東で進行する静かな民族浄化は不可避なのか。国際社会が軍事介入してでも防止すべきなのか。中国漢族のウイグル・チベット族迫害は静かな民族浄化なのか。今回の対イラク再軍事介入は欧米だけでなく、日本にも重大な問題を提起している。