この原稿を書くにあたり、5月末の「日朝合意」に改めて目を通した。「全ての日本人」「包括的かつ全面的」調査、生存者を「帰国させる方向」等々、客観的に見て北朝鮮側の言いぶりは明らかに従来とは異なる。安倍政権が熟慮の末政治決断を下した理由は十分ある。
ただし、背景は定かでない。金正恩体制の権力基盤が固まり、国内改革に向け決断を下したとの見方がある。だが実態は、米中韓との関係が思うように進まない中、追い詰められた末の「苦肉の策」なのかもしれない。いずれにせよ、10年に1度のチャンスだ。安倍内閣の決断は一定の評価に値する。しかも今回は官邸と外務省などの連携がスムーズなのか、雑音はあまり聞こえない。一つのチームとして機能している証拠だろう。
追い詰められた北朝鮮がようやく正しいギアにシフトしたのか。いやいや、相変わらず「こわもて」と「下手」を都合よく繰り返す父親時代のパターンがまた始まった、との冷めた見方もある。北朝鮮に再び「してやられる」との不安は拭えない。もっとも、北朝鮮側にも対日不信はあるかもしれない。一抹も、二抹も不安はある、と言わなければ嘘になるだろう。
ここで気になるのは他国との関係だ。確かに拉致問題は人道問題、極めて重要である。ご家族のことを思えば、政府が最大限の努力をするのは当然だ。しかし、北朝鮮問題は核・ミサイル問題でもある。日本の国家安全保障に直結するだけでなく、大量破壊兵器拡散防止は国際社会の共通の懸念だ。日本だけが抜け駆けするわけにはいかない。
さらに、筆者が最も気にするのは、東アジアの政治軍事環境が激変する中、日本外交が地政学的に正しい戦略判断を下せるかどうかだ。ここでは残された紙面を使い、朝鮮半島と中国の地政学的位置関係について考えたい。
国内では最近の中韓急接近に対抗し日朝もある程度接近すべしという意見も散見される。だが、そうした「戦略」と「戦術」を区別しない議論は危険ではないか。筆者の独断と偏見をご紹介しよう。
◆過去2千年間、朝鮮半島にとって中国は近すぎ、大きすぎ、無慈悲すぎる存在だった。抵抗すれば何百年も占領され、冊封関係に入れば実質的独立だけは維持できた。これが朝鮮半島地政学の実態である。
◆北朝鮮 チュチェ(主体)思想は中国からの独立を暗示する。中朝は決して兄弟ではない。最近の中朝関係悪化は偶然ではなく、両者の歴史的相互不信の結果なのだ。
◆中国 北京も北朝鮮など信じていないが、見捨てるわけにもいかない。中国にとって北朝鮮を失うことは、独立、自由、民主的な、潜在的に反中の、米軍が駐留を続け、核技術を持つ統一朝鮮半島と直接国境を接することを意味するからだ。その意味で最近の中韓接近はあくまで戦術的なものである。
◆韓国 ソウルにとって米韓日の連携は北朝鮮に対抗する枠組みだった。しかし、中国という歴史的大敵が復活する中、韓国外交は重大な岐路に立っている。日米とともに現状維持勢力として生きていくのか、中国との関係を見直し、21世紀の新冊封関係を模索するのか。地政学的に見れば、朝鮮半島にとって前者が「戦略」であり、後者は「戦術」にすぎない。現在韓国はこのことを正確に理解しているのか、甚だ疑問である。
◆米国 東アジアでの存在感が相対的に低下しつつある米国も戦略の立て直しに迫られている。米国は日米韓連携から離脱しかねない韓国に対し「戦略的判断」の重要性を再認識させる必要がある。
◆日本 日本の地政学的利益は独立、自由、民主、非核で繁栄する統一朝鮮半島だ。孤立させるべきは中国であって韓国ではない。日本も戦略と戦術を区別すべきである。