メディア掲載  外交・安全保障  2014.07.10

「世界の警察官」をやめる米国 日本の集団的自衛権行使に対する「本当の懸念」

WEDGE Infinity に掲載(2014年7月7日付)

 2013年夏以降、オバマ政権の外交政策にとっては散々な時期が続いている。そもそものつまずきは昨年夏、シリアのアサド政権が自国民に対して化学兵器を使用した疑惑が浮上したときに始まった。当初は、「化学兵器使用はレッドライン(超えてはいけない一線)」だとして、米軍による何らかの武力介入をほのめかしていたオバマ大統領は、米議会の猛反発に遭い立場を後退せざるを得ず、結果、ロシアの仲介でシリアのアサド政権と国連の間に化学兵器廃棄に向けたプログラムの設置について合意が成立し、ロシアに大きな借りを作ってしまった。

 そのロシアが今年の春には、「グレーゾーンの地上戦版」ともいえる手法でクリミアに侵攻。米国を含む国際社会の非難をものともせず、あっという間にクリミア併合宣言をしてしまった。これにより、ウクライナがロシアからの警告を無視してEUに接近、ロシアとウクライナの間の緊張が高まるにつれ、NATOの東端であるポーランドもロシアの動きに今までになく神経質になっている。

 そして先月には、オバマ大統領が自分の政権の最大のレガシーと捉えていた「戦争を終え、米軍を撤退させた」はずのイラクで地元スンニ派の部族の支援を受けた「イラン・シリアのためのイスラム国家」(ISIS)が政府に対して反旗を翻し、激しい戦闘が発生、戦闘は現在も継続している。マリキ首相は、イスラム教のスンニ、シーア両派やクルド人などすべての勢力を政権に参加させ、国家の統一維持を最優先にする挙国一致内閣の設置を拒否、これを契機にクルド人もイラクからの独立を今一度求める動きが出てきており、イラク情勢は2週間もたたないうちに事実上の国家崩壊に陥ってしまった。また、東・南シナ海における中国の高圧的な行動はおさまる気配がない。米国外交はまさに「四面楚歌」状態である。


◆米国内の厭戦気分が後押しするオバマの外交政策

 しかし、そのような状況でも、オバマ大統領は、5月下旬の米陸軍士官学校(ウエスト・ポイント)で演説した際に披露したオバマ・ドクトリン、即ち、「海外の紛争には、(1)米国や米国の核心的利益が脅威に晒されているとき、(2)米国の生活様式や価値観といった国家のあり方そのものが挑戦を受けているとき、(3)同盟国が武力による侵略の危険に直面しているとき、という3つの要件のどれかに該当する状況以外は、武力介入を主体とするアプローチは慎むべきである」の原則を貫く姿勢のようだ。イラクにおけるISISの躍進に際しても、一番最初から「大規模な米地上軍の派遣は考えていない」と自ら「圧倒的力での武力介入」オプションを放棄してしまっているありさまである。

 このような状況を見てオバマ政権の外交政策を批判するのは簡単だ。しかし、米国がこのような方針転換をした背景には、二つの大きな要因がある。一つ目は財政再建の必要性が叫ばれる中で、国防予算をイラクやアフガニスタンで大規模な米軍が活動していた時期のように潤沢に使える時代は終わったという事実である。財政収支赤字が増大する一方の国家財政に加えて、財政収支赤字の中に国債などの債務が占める割合が75%に迫ろうかという今の状況では、国際的に危機が起きるとすぐさま米軍を投入するというこれまでのアプローチは、政策論以前に、国家財政上、使い続けることができないオプションになりつつあるのだ。

 もう一つの要因は、国内の厭戦気分である。2001年から10年に亘り、多数の米軍兵士がイラクやアフガニスタンで犠牲になった。にも拘わらず、イラクでは、当時のブッシュ政権が喧伝していた大量破壊兵器は結局、発見されなかった。米国に対する直接的な脅威が何なのかはっきりしない状況で、イラクやアフガニスタンに対して見せたようなコミットメントを見せるのは当分の間ご免だ、というのが現在のアメリカでの支配的な空気だ。たとえ海外や、共和党の議員から「弱腰」「内向き」と批判されようと、オバマ政権の現在のアプローチは、少なくとも一般国民の多くが望んでいるものなのである。


◆「普通の国」化する米国

 実は現在のような空気は、ベトナム戦争直後にもアメリカ国内に存在していた。当時のニクソン大統領は、1969年に、報道陣とのインタビューに答える形で、いわゆる「グアム・ドクトリン」に言及し、その中で、米国は同盟国の防衛義務に対するコミットメントは維持する、としながらも、アジアの同盟国に対しては、自国を防衛するための能力を強化する自前の努力をすることを促し、またアジア地域の各国間で、アジア太平洋地域の安定化を図るために種々の努力をすることも強く奨励した。

 実はこの「グアム・ドクトリン」、オバマ政権が標榜する「アジア太平洋リバランス」によく似ている。特に、「同盟国へのコミットメントの維持」を強調しながらも、その一方で同盟国による一層の自助努力を促し、地域的枠組の構築を奨励しているところなど、「アジア太平洋にリバランスする」という一方で同盟国の能力構築をアジア太平洋地域においては優先課題に挙げる現在の政策にそっくりである。国内に強い厭戦気分が存在する点も共通している。

 要は、今の米国は政治的にも予算的にもこれまでのように世界の警察官として圧倒的な軍事力を背景にした外交を展開できる状態ではないのだ。これは、これまで「国際秩序の維持」のような漠然とした目標への使命感で動いていたアメリカが、自国に直接影響がない場合には軍事力を投入することをためらう、つまり「普通の国」化していく可能性を意味する。

 自分たちは最早ない袖は振れない。しかし、第二次世界大戦後に自らが中心となって築き上げた国際秩序に対するニーズは、大きくなり続ける一方だ。であれば、既存の秩序をこれからも維持するためには、米国と同じ考えを共有する同盟国やパートナー国に、それぞれが持つ能力を最大限に発揮しつつ米国と協力してもらう必要がある。「普通の国」化が進む米国にとって、少なくとも米国の力をアテにして自国の安全保障を確保するような「ただ乗り」は最早許容できないのである。


◆日本の集団的自衛権をめぐる動きには「様子見」

 このような観点から、7月1日に日本政府が行った憲法9条の解釈に関する閣議決定に対する米国の反応を見ると興味深い。1日の閣議決定により、集団的自衛権行使への道が開かれたことに対して、ヘーゲル国防長官は同日に発表した声明の中で「日本が今後、地域や世界の平和と安定により多大なる貢献をするための重要な一歩である」と称賛し、また今回の決定は、現在進行中の日米防衛協力の指針(ガイドライン)の見直しに代表されるような同盟の近代化の努力にも合致するものである、と述べた。1日付のウォール・ストリート・ジャーナル紙でも、今回の閣議決定については中国からの脅威を考えると止むを得ない措置である、と社説で述べるなど、おおむね好意的な見方である。

 その一方で、「様子見」の雰囲気が根強く存在するのも事実だ。安倍政権発足当初に「2013年秋ごろ」と言われていた閣議決定の時期が何度も延期されて今に至っていること、今後整備が必要とされる法律の審議を今年秋の臨時国会で本当に開始することができるのかが依然として不透明なことに加えて、閣議決定前に総理官邸前に多数の人が集まって抗議行動が行われたことや、集団的自衛権に抗議して男性が焼身自殺を図ったことなどがアメリカでも報道されているため「国民の間でのコンセンサス形成にはまだほど遠い。閣議決定は数の力に任せて自民党が押し切ることができたが、法律改正や新法制定など、国会での審議を経なければならないプロセスは、簡単には進まないだろう」という見方が広がっていることも関係しているようだ。

 もともと、米国は、日本の「集団的自衛権行使」そのものについては、意外と冷静だ。もちろん、集団的自衛権の行使ができるにこしたことはないのだが、現在の憲法の制約下で日本が十分できるはずのことで、できていないこともかなりあるため、そういう活動ができるように法整備をしてもらうほうが、同盟の実質的機能の向上にはつながる、という考え方だった。今回の閣議決定についても、「集団的自衛権を日本が行使できるようになる」ことよりも、その結果、日本が日米同盟の枠組みの中でできる活動の幅がどれくらい広がるのかを注視している。

 日米防衛協力の指針(ガイドライン)見直しに対する熱意も日本と米国では温度差がある。尖閣諸島をめぐり中国との緊張が高まる中で、日本がくどいほどに米国に「日米安保条約第5条適用」へのコミットメントを求め続けていることで、米国では「日本は、尖閣諸島をめぐる中国の対立に、自力で対応する真剣な努力をすることなく、米国を巻き込もうとしているだけなのではないか」という懸念がその温度差の根底にはある。

 日米防衛協力の指針の見直しについても、「安保条約第5条に基づく米国の関与の幅を拡大するのであれば、日本は安保条約の第6条で想定される事態や、平時からの防衛協力などで、コミットメントを拡大してほしい。憲法を盾にあれもできない、これもできない、というのはもうやめてほしい」という雰囲気だ。つまり、米国にとっては、ガイドラインの見直しは、日本が集団的自衛権の行使が可能になることで、自衛隊の活動の範囲を拡大する意思と覚悟を示して初めて、真剣に議論する意味があるものなのだ。つまり、「集団的自衛権行使」はあくまで今後の日米防衛協力のあり方を考えていく上での、議論の入口に過ぎないのである。


◆「ガラパゴス化」した日本の安全保障議論

 しかし、今回の閣議決定に至るまでの議論を見ていると、戦後70年が経とうとする今でも、日本国内の安全保障に対する考え方はほとんど進歩を見せていない。議論の最大の焦点が、いかに集団的自衛権行使の解釈範囲の拡大に「歯止め」をかけるかであったことが、日本の安全保障論議を巡る環境が未だに世界の常識とかけ離れた状態から脱却できていないことを象徴的に表している。

 そこには、日本が現在直面する安全保障環境や脅威の質的変化の結果、「前線」と「後方」、「戦闘地域」と「非戦闘地域」のような人為的な線引きができない状況が生まれていることに対する理解もなければ、軍事・準軍事力を使って日本や東南アジアに圧力をかけてくる中国や、北朝鮮のような「今そこにある危機」に今のような体制で対応できるのか、このような状況の中で日本が国家として生き延びるためにはどうすればいいのか、ということに対する冷静な議論をする余地はない。「集団的自衛権の行使を認めれば日本は望まない戦争に巻き込まれるのではないか」という情緒的な懸念が議論の焦点になり、日本が逆に自国の紛争に他国を巻き込む可能性があることについては議論にも上らない。相変わらず日本の安全保障論議を取り巻く環境は「ガラパゴス化」した状態のままなのである。

 1日の閣議決定はスタート地点でしかない。これからの防衛法制整備やガイドラインの見直しの成否は、日本が安全保障上の「ガラパゴス化」から脱却し、地に足のついた安全保障論議を政治家が国民の前でして見せることができるか否かにかかっている。自分を棚に上げて米国の内向き傾向を批判している時間は、日本にはないのである。