コラム 外交・安全保障 2014.07.09
6月28日、NHKスペシャルは「流転の至宝」を放映した。故宮所蔵の宝物のことである。これまで何回も拝観していたが、今回はこれまでとは少し異なる角度から興味を覚えた。中国人がその優れた文化財を大切にし、また、それが中国のイメージを改善する力を持つことを認識していたことである。
話は1935年までさかのぼる。その年の11月から100日間、ロンドンで中国芸術国際展覧会が開かれ、故宮の文化財735点が披露された。その2年前、日本軍は満州から山海関を越え華北に侵入し、国民党政府は日本軍と共産党軍に挟まれていた。日本政府はいわゆる廣田三原則を掲げ、国民党政府に共産党軍を掃討するよう圧力を強め、軍部は「北シナ政権を絶対服従に導く」とますます強気になっていた。一方共産党軍は、抗日救国の8・1宣言を発し、いわゆる長征を敢行して長期戦に入った。
この大変な状況のなかで大量の文化財をロンドンに運ぶ余力がどこにあったのか不思議なくらいであるが、ともかく英国の軍艦「サフォーク号」に展示物を運んでもらった。英国は中華民国が幣制改革を行ない銀本位制・通貨管理制を導入するのに協力しており、関係がよかったのである。
中国芸術国際展覧会を訪れたイギリス人は42万人にものぼり、一種の中国ブームが沸き起こった。宋代の皇帝の衣装を模したファッションなどが流行したそうである。この展覧会は中国美術コレクターの呼びかけが始まりだったが、蒋介石は英国政府に両国主催の展覧会にすることを求め実現した経緯があった。ロンドン大学のアントニー・ベスト博士は、日本と戦う中国政府の「文化的プロパガンダ」戦略があったと分析している。
一方、日本政府は、満州事変を調査したリットン卿が展覧会に関わっていることを知って危機感を募らせ、英国政府に問題だと申し入れたが、展覧会は予定通り開かれた。中国側の目論見は成果をあげ、日中戦争になった際には中国を支持する人が増えていたとベスト博士は見ている。
故宮博物院が設立されたのは辛亥革命から13年後の1925年であった。清朝末期には文化財が外国に流出しており、国民党政府は成立当初から危機感を抱いていた。日本軍が山海関を越えると国民党政府はいち早く故宮の文物を5つに分け、約2万箱を上海など南部に運んだ。その準備は1931年の満州事変後すでに開始していたと言う。
1937年、盧溝橋事件が勃発すると上海から南京に移していた文物を、さらに南路、中路、北路の3つのルートで奥地へ避難させた。南路で運ばれた80箱の文物は、ほとんどが中国芸術国際展覧会に出展した逸品であり、武漢を経由して長沙、貴陽、安順の各地を経て四川省巴県に運んだ。中路で運んだ9331箱は、漢口、宜昌、重慶、宜賓を経由し、最後に四川省の楽山安谷郷に安置した。北路経由の7287箱は、津浦鉄道に沿って徐州まで、さらに隴海鉄道で宝鶏まで運んだ後、漢中と成都を経て、四川省の峨眉に運んだ。北京に残されていた文物も、後に南京経由で重慶からさらに奥地に運び、四川省南渓に移した。
1948年秋、内戦で国民党軍が劣勢に立つと、政府は文物を台湾へ移すことを決定し、同年末から3回に分け、約2千箱を移送した。量的には上海へ移したものの約2割であったと言う。これが台北の故宮博物院に展示された。
故宮の文物が移送されるきっかけとなったのはいずれも中華民国の命運を左右する大事件であり、国民党政府は早め早めに手を打って移送したのであるが、保護し、輸送するのにかかった経費も人手も半端なものでなかったはずである。これを実行した指導者の見識の高さもさることながら、その決定を支持した中国人も偉かった。このような大作戦は少数の指導者が決定すればできることではないだろう。
政治の逆風に抗して故宮の宝物を守ってきた中国人にはみずからの文化に対する愛着と誇り、それに自分たちで故宮の宝物を守らなければならないという強い思いが感じられる。中国の国家体制は歴史的に何回も変わってきたが、中国の文化、ほんとうに優れた文化伝統は不変である。
また中国人は、中国の優れた宝物を外国人に見せることによって対中国イメージを改善し、味方につけることにも役立つと考えている。そういう意味では、中国人はいわゆるソフト・パワーの力を昔から知っていたように思われる。