メディア掲載  外交・安全保障  2014.07.03

空想的平和主義の限界

産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2014年7月3日)に掲載

 この原稿は早朝のワシントンで書いている。今週も可能な限り多くの旧友から米内政外交の動向を肌で感じ取るべく勝手な「定点観測」を続けている。今頃東京では集団的自衛権に関する憲法解釈を変更する閣議決定の是非をめぐり大騒ぎだろうと推測する。

 「集団的自衛権って何のこと?」。残念ながら、ワシントンではこれが「アジア村の住人」を除く一般知識人の反応だ。首都ですらこうだから、他の地域に住む米一般庶民のこの問題に対する関心などゼロに近いだろう。それだけではない。欧州ではウクライナが急速にEUに接近し、中東ではイスラム・カリフ国家が誕生しつつある。

 それにもかかわらず、今の米一般庶民の関心は未成年者を含む違法移民の問題や中間選挙に向けた民主・共和両党内の予備選挙のことばかり。改めて米国民が「内向き」になっていることを実感させられた。こうして地球の裏側から日本での議論をさめた目で眺めてみると、問題の本質が見えてくるから面白い。

 日本の一部マスコミは今回の閣議決定について「なし崩しの拡大解釈」、公明党に対しては「見苦しい変節」「政治的パフォーマンス」などといった批判を繰り返している。しかし、こうした論調を正確に英訳して説明すればするほど一般の米国人は理解どころか、混乱するばかりだ。

 例えばこんな調子。日本が集団的自衛権を行使すれば、「自衛隊が戦争に巻き込まれる可能性が高まる」という批判が日本にはある。こう説明すると「理解できない。いかに説得しても、悪意のある相手が物理的な力で攻撃してくれば、こちらも力で自国や同盟国を守るのは当たり前ではないか」と切り返される。

 「いやいや日本では自衛隊は同盟国のために戦ってはいけなかったのだ」と説明すれば「では一体誰が日本を守るのか。まさか米国だけに戦えというのではないだろうな」とクギを刺されてしまう。

 こうしたやりとりを繰り返しているうちに、ふと子供の頃見たゴジラを思い出した。もちろん、野球選手の話ではない。昭和29年に封切られた怪獣映画の「ゴジラ」である。29年ということは、ゴジラも今年が還暦。この記念すべき第1作のポスターでは、何と日本の軍用戦闘機がゴジラと戦っている。そういえば、その後日本で封切られたほとんどの怪獣映画に共通するのは、自衛隊の戦車や戦闘機の攻撃を受けてもびくともしないゴジラなど怪獣の姿だった。言い換えれば、当時の映画に出てくる自衛隊には仮想敵国がなく、戦う相手は怪獣だけだったのだ。ゴジラの1年先輩にあたる筆者も子供心に「どこかおかしい」とは思っていたが、このゴジラのポスターを改めて見て確信した。日本の怪獣映画とは、自衛隊が現実の敵と戦ってはいけない「空想的平和主義」を象徴する作品だったのだ。

 戦後の空想的平和主義は机上の空論だった。戦争とは軍隊があるから起きるのではなく、悪意ある相手方が軍隊を使って現状を変更しようとするから起きるのだ。そうであれば、戦争回避には相手を抑止する必要があり、そのためにはこちらも最後は戦う覚悟をする必要がある。日本人はこのような抑止に関するグローバルスタンダードを認め、今こそ戦後日本の空想的平和主義の呪縛から脱却し、より実態に即した現実的な安全保障政策を立案・実施する時期に来ているのではないか。

 ゴジラが生まれた時代は戦後直後の反軍・平和主義全盛の時代だった。その後朝鮮戦争が起き冷戦時代が始まったが、幸い日米同盟が機能してソ連が抑止されたからこそ、ソ連軍は北海道に来なかったのである。残念ながら、今は状況が異なる。南の島に対する潜在的脅威がいつ明白なものとなるかは誰にも分からない。今回の閣議決定は安全保障のグローバルスタンダードに基づく正しい決断である。