メディア掲載 グローバルエコノミー 2014.03.20
1.戦前の農村はどうだったのでしょうか?
戦前、農村や農業は貧しかったのです。農村を支配していたのは、地主階級でした。小作人は、収穫したコメの半分近くを、地主に小作料として納めさせられました。
また、米と書いて八十八手間がかかるのだと言われるように、当時の米作は大変でした。化学肥料は普及していましたが、農薬や農業機械はほとんど普及していませんでした。雑草や病害虫の駆除、田植え、稲刈りなどの農作業は、ほとんど手作業でした。農村には、たくさんの"おしん"がいました。
2.この農村は、戦後どのように変わったのでしょうか?
なんといっても、小作人の人たちが解放されたことをあげるべきだと思います。戦前から、小作料の減免を求める小作争議が頻発したことや、小作人解放に執念を燃やす農林省の挑戦によって、地主制は動揺していき、最終的には農地改革によって、解体・消滅しました。農村は1ヘクタール程度の小さな農家の集まりとなりました。戦後しばらくは、食料品価格が高騰したため、農家や農村は豊かになりました。都会で食べられなくなった人たちは農村に帰って、飢えをしのぎました。しかし、経済や産業が復興していくと、農家所得は勤労者世帯の所得を下回るようになりました。昭和36年、1961年に作られた農業基本法は、農業と工業の所得格差の是正を目的に掲げました。また、農村は貧しくなったのです。
ここまでが、多くの人たちが知っている、農業や農村だと思います。
3.国民の多くが知っている農村は、さらに変わったのでしょうか?
今、日本の人口の半分が、関東、中京、京阪神の三大都市圏に集中しています。それ以外の都市も含めると、国民のほとんどは、農業や農村から遠く離れた地域で、生活しています。
このような都市化は、戦後急速に農村から都市へ人口が移動した結果です。昭和の流行歌には、ふるさとの歌は多くありません。戦前では、「誰か故郷を想わざる」、戦後に「かえり船」、「異国の丘」くらいです。ところが、昭和30年代頃のヒット曲には、田舎から都会に出てきた人たちや田舎に残された人たちに訴えかける、"ふるさと"の歌が圧倒的に多いという特徴があります。主なものだけでも、「別れの一本杉」、「リンゴ村から」、「お月さん今晩は」、「東京だよおっ母さん」、「南国土佐を後にして」、「あゝ上野駅」、「ふるさとのはなしをしよう」などがあります。メロディーが頭に浮かぶ方も多いと思います。
この時期、農村の次男、三男等の過剰労働力と都市の人手不足がかみ合い、農村の若者は"金の卵"と称され、就職列車に揺られて、都会に集団就職しました。「あゝ上野駅」の世界です。その農村は、都市への人口移動が終了した後、大きく変化しました。昭和30年代に都会に出てきた人たちやその子孫たちの見聞きしている農村と、今の農村はかなり違います。
4.では、今の農村はどうなっているのでしょうか?
昭和40年代になると、農村の近くに工場等が立地するようになりました。農家の長男などの後継ぎたちが、農村に住みながら、会社や工場などに就職・通勤するようになりました。
農村にサラリーマンが多くなりました。農村集落で農家はもはや少数派になっています。農家が3割に満たない農村集落は、農村集落全体の5割を超えています。また、農業を続けた世帯でも、平日はサラリーマンとして働き、休みの日だけ農作業を営むという「兼業農家」が多くなりました。
国全体のGDPに占める農業の割合は、1960年の9%から今では1%へ減少しています。目につく土地の広さからすれば、農業は地域経済の中で大きな地位を占めているように見えますが、北海道、東北、南九州の農業県といわれる地域においても、その経済に占める農業の割合は5%程度となっています。農業関連産業もありますが、農業の比重が低下していることは事実です。
コメについては、機械化が進み、農作業に必要な時間が大幅に縮小しました。平均的な規模の水田では週末の作業だけで十分となりました。1日8時間労働として、1ヘクタール規模のコメ農家は、1951年には年間251日働いていたのに、2010年では30日しか働いていません。農村で農業を行っている人も、ほとんどが本業はサラリーマンで、週末だけ田んぼに立つ兼業農家となりました。
この人たちは、規模が小さい小農ですが、サラリーマンなので、決して貧しい人たちではありません。1965年以降、農家所得は勤労者世帯の所得を上回って推移するようになりました。今の農村に小農はいますが、貧農はいません。その一方で、規模を着実に拡大している企業的な農家も増えてきています。農村のほとんどが農家で、同じような規模だったという農地改革後の農村と、今の農村は同じではありません。
農業政策や地域政策を検討するときには、このような事情を考慮する必要があります。