新年というのに日米間にちょっとした不協和音が生じつつある。昨年末の安倍晋三首相靖国参拝をきっかけに日米間の認識ギャップが顕在化する可能性が出てきたからだ。
クリスマスの夜の、しかも予期せぬ「ヤスクニ」参拝に最も強く反発したのは他ならぬワシントンの「アジア村」関係者だった。日本側がいかに説明を試みても、彼らアジア専門家の多くは靖国神社が「戦前の日本の行為を正当化する象徴的存在」と信じ込んでいる。実に不愉快ではあるが、これがワシントン政治の現実だ。しかも、こうした対日懸念は日本を深く知る専門家ほど顕著なようだ。「裏切られた」という気持ちが強いのかもしれない。
これに対し、日本では米政府の「失望」表明へのわだかまりが生じている。新年早々の世論調査では、7割近い人が中国と韓国の姿勢に「納得できない」と答えただけでなく、6割近くが米側の「失望」声明にも「納得できない」と答えたそうだ。靖国参拝は基本的に内政問題であり、これまでも米国は、水面下ではともかく、対外的に沈黙を守ってきたはずだ。「米国は分かっていない」「裏切られた」と感じた人も少なくなかったのだろう。
安倍首相の靖国参拝についてはメディアを中心にさまざまな臆測が飛び交った。特に目立ったのは、首相が「米国政府の強い反応を予期していなかったのでは」というものだが、これにはちょっと異論がある。オバマ政権側の考え方は累次日本側に伝わっていた。それを安倍首相が知らなかったはずはないからだ。
他方、米側が使った「ディサポインテド」の意味は「失望」であり、それ以上でも、以下でもない。「遺憾」「反対」「抗議」「非難」などより強い表現を使う状況ではない。米側が日米同盟関係の維持・発展を前提に一定の不快感を表明したことは、事前想定の延長上にあったと思う。
最大の要因は中国と韓国のかたくなな態度だろう。実際、7年前の安倍首相は中国と戦略的互恵関係に合意している。今回も中国や韓国が対話に前向きな姿勢を示していれば、首相の判断は変わっていたかもしれない。安倍首相の靖国参拝は対中対韓関係をも含め、内政・外交を総合的に勘案した上での高度の政治判断だったと理解している。
問題はここからだ。今回の参拝により日米同盟関係が近い将来大きく揺らぐ可能性は低いだろう。だからといって、今回の不協和音を一過性のものと過小評価すべきではない。昨年末から表面化した日米間の認識ギャップは、安倍首相の靖国参拝の有無にかかわらず、既に存在し、かつ今後も存在し続ける可能性がある。このことを日米関係者は覚悟すべきだろう。
言うまでもなく、ギャップ拡大の原因は中国の政治的・軍事的台頭だ。以前であれば米国は歴史問題をめぐる日中間の軋轢(あつれき)を黙殺する余裕があった。しかし、米国の弱体化がささやかれる中、中国が政治・軍事的に強大化する新たな戦略環境の下で米国に昔のような余裕は期待できない。それでも米国は真に機能する日米同盟を必要としている。
以上を踏まえ、日本がすべきことは2つある。第1は首相の靖国参拝が「第二次世界大戦前の日本の行為を正当化する歴史観の肯定」ではないことを米側、特にアジア関係者に納得させることだ。第2は、第1の目的を達成するためにも、日本人が現在の国際社会のルールである「普遍的価値」に基づき、靖国問題の論点を再構成し、平易な外国語で説明できるロジックと実態を作り上げることだ。
誤解を恐れず、申し上げたい。世界が見ているのは東京裁判の国際法上の正当性の有無ではなく、日本人自身が過去の敗戦の政治責任を内政上いかに整理するかである。冷戦時代であればともかく、今の成熟した日本社会にはそれが可能なはずだ。