メディア掲載  財政・社会保障制度  2013.09.20

米経済学者が試算 赤字国債「150年返済計画」

「文藝春秋」2013年9月号掲載

 「来年4月の消費税増税がないかもしれないって本当なのか」。

 アトランタ連邦準備銀行の経済学者リチャード・アントン・ブラウン(マクロ経済学者の間ではトニーと呼ばれている)からメールが来たのは7月11日のことだ。3日前にウォール・ストリート・ジャーナルで「日本で消費税増税に対する反対論が高まっていて、増税するかどうかの最終決定は10月になる」と報道されていた。それを見て慌ててメールしてきたのだ。彼と私はこの秋に日本の財政問題をテーマとする小規模な国際会議を企画していた。アベノミクスで成長戦略に期待が高まっているが、消費税の増税をしなくても良いほど経済成長するだろうか? この問題を分析し、結果を発表しようというのが会議の趣旨だった。会議の前に増税延期が決まるのを心配したのだ。

 トニーは有名なマクロ経済学者で、長年、東京大学教授を務めていたこともあって日本経済について研究も多い。彼は南カリフォルニア大学教授のダグラス・ジョインズと共同で日本の人口動態、経済成長、社会保障制度と財政問題の関係がこれからどうなっていくのかコンピュータシミュレーションで予想する研究を行ってきた。

 彼らが2年前に行った研究発表を紹介しよう。内容はあまりにも衝撃的だ。

 まず人口であるが、トニーたちは国立社会保障・人口問題研究所の推計を延長して計算した。合計特殊出生率(一人の女性が生涯に出産する子供の平均人数)1.3が2050年まで続き、その後、50年間かけて徐々に2まで回復すると想定して計算すると、日本の総人口は2150年に4,000万人弱まで落ち込み、その水準で安定することになる。要するに、「19世紀末の人口」に逆戻りだ。他方、なにか奇跡が起きて出生率がいま急に2になったとしても、人口減少は止まらず、日本の人口は最終的に8,000万人に収束する。人口の長期予想は、経済の長期予想と違って、出生率の想定が正しければ結果はほぼ100%正しい。日本の人口は、将来的に必ず8,000万人から4,000万人の間に入る。

 次に経済成長。生産性の成長率(技術進歩率)は過去100年間の平均でみると、先進国では年率2%である。これは技術進歩の基本的な性質をあらわしているので、容易に変えられない。経済成長率は、生産性の成長率と人口の増加率の和で近似できるので、これから人口減少が続く日本では、アベノミクスがどれほど大成功したとしても、経済成長率は2%を維持するのが精一杯であろう。


■日本の借金は途方もない

 さて、日本の財政を最終的に安定させるには、消費税率を何%にしなければならないのだろうか?
 トニーたちの答えは33%、しかも恒久増税である。

 いまの政治的状況からすると、めまいがするような数字である。シミュレーションでは、人口は出生率が回復せず、生産性の成長率は2%、インフレ率は1%が続くとし、社会保障制度は現状のまま何も改革をしないと仮定した。財政再建のターゲットは、2100年までに国債などの公的債務の対GDP(国内総生産)比率を60%に戻して安定させることとした。この比率はEUの加盟基準と同じだ。

 ちなみに、出生率がいますぐ2に回復したとしても、必要な消費税率は28.5%になる。財政再建に限れば出生率の回復もあまり助けにはならないのだ。また、2年前のこのシミュレーションで、トニーたちは「生産性の成長率が2%でインフレ率が2%」という設定のケースも計算している。これは、アベノミクスの成長戦略が大成功した場合の日本経済の姿である。その想定でも、公的債務を安定させるためには、消費税率を25.5%まで上げなければならないことが分かった。

 「消費税率33%が必要」というような議論は一般のメディアではほとんど出てこないが、経済学者や日本の財政専門家の間では違和感のない数字だ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の高名なマクロ経済学者ゲイリー・ハンセンと南カリフォルニア大学の社会保障専門家のセラハティン・イムロホログルが行った日本財政の研究でも、財政再建のためには消費税率を35%まで上げる必要があるという結果が出ている。

 つまり、日本の経済、財政、社会保障のデータを虚心坦懐に眺めると、「財政を持続可能な状態に戻すためには消費税率に換算して約30%分に相当する財政収支の改善が必要」という結論に達するのである。

 2年前のトニーたちのシミュレーション結果は、キヤノングローバル戦略研究所が主催した国際会議で発表されたが、参加者から「消費税率を恒久増税で33%にするという案は、政治的にまったく実現不可能だ」という批判が相次いだ。

 「ではもっと現実的な政策プランを考えるよ」と言って数か月後にトニーが持ってきたのが次に述べる「財政再建150年プラン」である。それが現実的かどうかはともかく、内容は、歳出削減やインフレと増税を組み合わせた、かなり漸進的な財政再建プランになっている。なにより最終的な消費税率は33%ではなく、17%ですむのだ!

 まず、プランでは2%インフレを達成する、とされている。これは現在の黒田日銀が進めている「異次元緩和」と同じ目標だ。ゆるやかなインフレでは財政支出の実質的な負担が少し抑制できるので、これで財政の負担は少し軽くなる。

 つぎに、年金給付の削減を行う。年金支給額が現役世代の年収の何%にあたるか、という比率を「代替率」とよぶ。現在、政府の公約は「標準世帯の代替率50%」だが、これを反故にする。今世紀半ばから30年間、年金の代替率は30%程度に引き下げる。

 さらに、高齢者の医療費の窓口負担を2割に上げる。現在、70歳以上の高齢者の医療費窓口負担は1割だが、これを一律2割にする。これから半世紀の間、日本の財政を圧迫する最大の要因は、年金ではなく高齢者向けの医療・介護の経費である。もちろん、生活の苦しい高齢者を支える仕組みは充実させなければならないが、高齢者に相応の負担をしてもらうことは日本の将来にとって切実な課題である。

 トニーのプランでは、さらに社会保障以外の財政支出を一律1%ずつカットした上で、消費税を段階的に引き上げていく。しかしそれは図のように途方もない時間スケールの計画なのだ。

 まずこれからは、5年おきに消費税率を5%ずつアップし、2070年代に32%まで引き上げ、30年余りその水準を維持する。この時期は高齢化のピークであり、この時期を乗り切ると人口構成は若返る。人口が徐々に若返るのに合わせて、消費税率を低下させ、最終的に2150年頃に消費税率を17%にして安定させるのである。

 読者はこの計画を現実的だと思われるだろうか?
 民主主義の政治システムで、いや、人間社会のどのような政治システムでも、何世代にもわたる150年間という時間軸で税制や財政政策を事前に決めることができるとは到底思えない。しかし、150年ぐらいの時間スケールをかけないと、日本の財政再建は無理だとトニーの分析は言っているのだ。日本の財政問題は、民主主義あるいは人間の政治的意思決定の限界を超えているのかもしれない。しかし、この途方もない「スケール感」をしっかり認識しなければ、財政問題の真実は議論できない。


包括的な政策プランを実施した場合の消費税率の推移

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■財政再建できないとどうなる

 2015年に消費税が10%になったとして、そのままの状態が続けばどうなるのか。その後数年は何も問題は起きないかもしれない。金融市場の参加者は2年よりも先のことは念頭にないので、市場では財政破綻への危機感は薄い。しかし、人の人生は50年、100年と続く。財政については、「今後2年は大丈夫だが、あとは野となれ」という訳にはいかないのだ。

 このタイムスパンで考えれば、日本でギリシャの債務危機と同様の状況が起きることは十分に考えられる。国内の家計貯蓄に対する国債残高の比率は年々高まっていて、今後10年~15年で、国債残高は家計貯蓄を超える。

 10年後には海外投資家に国債を買ってもらうことが当たり前となり、海外投資家の価格決定力が支配的になる。海外からの借金がなければ国の財政が回らない状態になるので、日本の財政問題は、最近の南欧諸国の債務危機や1980年代の中南米諸国の累積債務問題とまったく同じ構造になっていくだろう。その頃には経常収支(貿易収支)も赤字が定着している可能性が高い。仮に日本の製造業の競争力が高いままであっても、10年後には高齢化のため日本全体として「自分で稼げる金額以上に消費をする体質」の国になっているはずだからである。

 霞が関の官僚などと個人的に話をすると「財政は行くところまで行くしかないんじゃないか(破綻するしかない)」と諦めている人がかなりの数いる。完全に投げている様子なのにどこか明るいのは、戦後の日本の再出発と高度成長をイメージしているからだろう。「財政破綻して、いったん焼け野原になってゼロから再出発するほうが、面倒な財政再建をコツコツすすめるよりも、日本の財政も経済も一挙にV字回復するに違いない」と内心は楽観しているのだ。

 だがそれこそ希望的観測であり、現実は簡単ではない。日銀が国債を無制限に買い入れれば、国債の償還は実行できる。しかし、その場合、マネーが市場に溢れるので、インフレ率が高騰し、制御できなくなる。つまり「財政破綻=高インフレ」である。霞が関の本音は、「高率のインフレによって政府の債務負担を事実上、棒引きしてしまう方が、面倒な増税や歳出削減を国民に説明し、国会で通すために政治的に苦労するよりもずっと楽だ」ということに尽きる。

 しかし楽をできるのは政策当局者であって、国民は増税や歳出削減よりも、もっと大きなコストを払うことになりかねない。

 ブラジルやアルゼンチンが1980年代から繰り返し経験していることは、財政危機で高インフレになると、金利も高騰するため、政府の借金が棒引きされるどころか、むしろ国債の借り換え金利の負担が膨張して、政府の借金が増えることだった。非常に高い率のインフレになると、経済が混乱して経済成長率が下がり、生活水準が悪化する。その上、政府の債務も増えるので、中央銀行が国債の買い入れを増やして、ますますインフレ率が高騰する。中南米諸国では、この悪循環がかれこれ30年も間欠的に続いているのだ。日本の現状では約1,000兆円の政府債務残高に対して、毎年110兆円を借り換えている。インフレで金利が上がれば、借り換えの金利負担は莫大な金額になる。

 インフレによって政府の借金が棒引きされることを別の言い方に直せば、「全国民一人当たり1,000万円の財産がインフレで没収される」ということだ。高いインフレになれば、国民が持つ預金などの金融資産は価値が目減りする。一方、国債もインフレによってその価値が目減りするので、政府の借金の負担も減る。つまり、インフレが起きると国民から政府に実質的に所得移転が起きる。「高率のインフレは財産税と同じ」なのだ。さらに、経済活動の混乱がもたらす生活水準の悪化が加わると、国民生活の被害は、消費税を30%にする場合と比較にならないくらい大きくなる。

 財政破綻の「焼け野原」が一瞬で終わって、その後は健全な経済と財政が始まる、というわけにはいかず、日本経済のあちこちが「焼け続ける」状態が20年も30年も続く。当然、国力は衰退し、日本の国家としての地位も後退するだろう。20世紀初頭にアルゼンチンは世界有数の富裕国だったのに今は見る影もない、というのと同じ成り行きになりかねない。

 必要な規模の増税や歳出削減が困難である以上、国債価格の暴落やインフレ率の高騰が発生する可能性は当然、想定しなければならない。そうなったときの危機対応策(コンティンジェンシープラン)を立てておくことが為政者の義務だと思うのだが、霞が関や永田町は相当腰が引けている。「財政危機が起きたらどうするか、なんて話は責任ある立場の人間が軽々に議論してはいけない」というのである。その理屈は2種類ある。ひとつは「セクショナリズム」もうひとつは「愚民思想」と呼びたい。

 まず「セクショナリズム」は、政策当局の責務を狭く解釈して、それは自分の仕事じゃない、と言うことだ。「財政破綻を起こさないことが当局の役割なのだから、当局は破綻を起こさないための政策を考えるべきである。『破綻が起きたらどうする』と想定すること自体が当局者の責任放棄であり自己否定である(だから俺は考えない)」というロジックである。

 一見もっともらしいが、原発事故後の日本では、「想定外」は許されなくなったはずではなかったか。当局の責務は「財政破綻を起こさせない」というよりも、もっと広く定義するべきであり、財政破綻も想定して「国民生活を良くするにはどうしたらいいか」と考えるのが筋だろう。実際、デトロイトのように財政破綻は先進国でも起きる。その対策を当局が公務として立案するように指導するのは、政治の役割だ。

 もう一方の「愚民思想」は経済学的に洗練されている。「合理的期待仮説が主張するように、市場は政策に反応する。つまり、もし『当局が国債暴落の危機対応計画を作っている』と世間に知れたら、そのことが引き金になって市場が動揺し、国債暴落が起きるではないか。市場を驚かさないためにも、当局が財政破綻の心配をしているなどと国民に思わせてはならない(だから俺は考えない)」

 これも一理あるようだが、あまりにも国民や市場に対して「上から目線」ではないだろうか。危機対応策はしっかり考えつつ、市場を動揺させないように、財政の現状と将来の危機についてもっと誠実かつ上手に国民とコミュニケーションを図る努力をするべきだ。「市場が動揺すると困るから財政危機対策は考えない」というのは「地元が不安になるから原発の過酷事故は想定しない」というのに似て、尻尾が犬を振るような本末転倒の理屈だと思えるのだが。


■「破綻後」の議論をすべきだ

 市場に影響を与える恐れが少ない、という意味では、結局、民間の研究機関で財政危機についての危機対応策を考えるしかない。ここ数年、民間シンクタンク(たとえばキヤノングローバル戦略研究所、東京財団、経済産業研究所)や有志の集まりなどで財政破綻について研究が行われてきた。

 しかし、いずれも霞が関ほどのリソースはないので財政危機対策の全体像を構想するには至っていない。理由は単純で、民間の研究では財政危機に関心のある人しか集まってこないが、そういう人々は社会保障制度の具体的な知識を持っていないのだ。霞が関の各省庁に仕事を割り振るような、組織立った検討体制が本来は望ましい。

 いずれにしても「もし年金や高齢者医療費を削減するのが不可避だとしたら、どの費目を、どの程度の金額、どういう順番で削るのか」という「仮定の議論」を平時から十分にやっておく必要がある。もしも何の準備もしないでいて、国債暴落のような危機が起きればどうなるか。市場の暴走を止めるために、泥縄式に社会保障給付の削減を実行せざるを得ない状況に追い込まれる。混乱の中で、原発事故の避難時に多くのお年寄りが亡くなったのと同じような事態が起きかねない。おそらく政治的な声の小さい最弱者への給付から切り捨てていくことになり、払わなくてもいい犠牲を国民に強いることになる。

 永田町の常套句に「仮定の議論はしない」というのがあるが、こと財政問題については将来の危機を仮定しないという態度は単なる逃げにすぎない。国民生活に責任のある人々こそ、「仮定の議論」を平時から何度も繰り返し、非常時に備える責務がある。