コラム 外交・安全保障 2013.05.15
当研究所で行っている北方領土問題研究会では、日本が直面している3つの領土問題(北方領土、竹島、尖閣諸島)について検討している。2013年2月4日に開催した研究会では、尖閣諸島の問題について石井望長崎純心大学准教授から示唆に富む報告があったので、以下でこれを紹介したい。
現在日本が実効支配している尖閣諸島に対し、中国がさかんに領有権を主張している。双方の領有主張にはいくつかの論点があるが、そのうちの1つに、この島々をどちらが先に支配していたのかという歴史問題がある。日本は、1895年に尖閣諸島が他の国に属していない無主の地であることを慎重に調査し、閣議決定で沖縄県に編入した。政府は、これは国際法上「先占」にあたり、領土取得の正当な手続きの1つであると説明している。これに対し中国は、「明代の史料に記録がある」ことを根拠に、尖閣諸島が「無主の地」であったことにチャレンジし、この地域は中国の「固有の領土」であると主張している。この時代の「領域」概念を現在に適応できるかなど、こうした主張には様々な問題点を指摘できるが、石井氏によれば、この中国政府の主張と矛盾する歴史文書が存在しており、そもそもこうした主張自体を歴史的に裏付けることができないという。すなわち、明国自身が、「尖閣諸島は明と諸国の人々が自由に使用できる地域である」ということを認めていたのである。
この事実は、明国朝廷の公式日誌「皇明實録」に記載されている。1616(元和2)年、台湾を征討するために長崎から派遣された明石道友は、福建省沿岸まで約40kmのところにある東湧島(現在の馬祖列島東端)で董伯起という人物を拉致した。翌年、明石が董伯起を明に送還した際に、福建の海道副使(海防監察長官)である韓仲雍は、東湧島などの福建沿岸の6つの島名を明の海防範囲の外縁として挙げ、「この外の溟渤は華夷の共にする所なり」と述べた。「溟渤」とは大海を意味し、「華」は明を、「夷」は周辺の諸外国を意味する。また、「共にする」は「共同管理」という意味で捉えることもできるが、そのような史実は存在しないため、「誰でも自由に使用できる」といった意味合いで解釈するのが自然である。したがって、「この外の溟渤は華夷の共にする所なり」とは、「福建沿岸の東湧島などの島々より東側の海域は、明と諸外国の人々が自由に使用できる地域である」と理解できる。尖閣諸島は東湧島からほぼ真東に300kmほどのところにあるので、明国は公式文書で尖閣諸島が海防範囲の外側にあったことを認めているのである。
さらに言えば、明国の領土は大陸の海岸までであった。それは、「大明一統誌」や各地方誌において、明国の「領域」は「東のかた海岸に至る」とする記録が多数あることから明らかである。韓仲雍が明石道友に伝えたのは、こうした領土を守るための「海防範囲」であった。この海防範囲は、時代ごとに変化するものであり、明国の初期と後期には最も遠くまで到達したが、中期には倭寇に圧されて海岸線にまで後退した。韓仲雍の諭告があった1617年というのは、明の海防範囲が比較的遠くまで及んでいた時期ではあったが、彼が挙げた範囲には誇張もあり、当時明の支配が及んでいない地域も含まれていた。いずれにせよ、以上のことが領土と海防範囲に関する明国の認識であり、こうした認識は他の史料でも一貫して確認できるものである。
尖閣諸島をめぐるこれまでの論点は主に、明国の支配が尖閣諸島にまで及んでいたか否かという点にあった。つまり、尖閣諸島の東側に明国の支配領域の境界があったのか否かが議論の対象となってきたのである。一方、ここで紹介したのは、尖閣諸島のはるか西、中国大陸から40kmほどのところに明の海防範囲の東限があったというものである。今日的な意味での領土・領海概念が成立する以前のことであるので、この歴史的事実をどう解釈するかという点は議論の余地がありうるが、少なくとも「尖閣諸島にまで明の支配が及んでいた」という主張が成り立たないということは明白である。