コラム  外交・安全保障  2013.02.13

鬱陵島・竹島をめぐる官民外交交渉

 鬱陵島は昔から木材や竹が豊かで、また周辺の海では魚介やアシカがよく取れたので、日本人も米子などから出かけて操業していた。とくに、アワビは「きわめて大きく、これを串アワビにするが、その美味なることは類いない」と古書に記載されていた逸品で、鳥取藩は将軍家や幕府要人に献上していたそうである。しかし、鬱陵島は朝鮮領で、当然朝鮮人が漁に来ており、日本人が上陸すれば争いが起こった。

 元禄時代に江戸幕府は朝鮮朝廷から抗議を受けたことがあり、検討の結果鬱陵島は日本領でないとして日本人の渡航を禁止したが、この決定に至る過程で日本も朝鮮も非常に冷静であった。

 当時、日本と朝鮮半島を結ぶ最短のルートは対馬を経由するものであり、通交量も比較的多かった。鬱陵島や竹島あたりまで行くと、日本と朝鮮半島ははるかに隔たっているが、この二つの島と隠岐の島を飛び石のように利用すれば日本と朝鮮の間を行き来することも比較的容易であったのではないかと想像される。

 これを証明してくれるのが安龍福という朝鮮人である。普通の漁民であったが、鬱陵島で日本人と接触してから知られるようになった人物であり、後に、韓国では英雄として祭り上げられ、日本ではうそつきであったと言われるなど毀誉褒貶があるのは残念だが、同人の言動に関し記録されていることは興味深いものである。

 第一に、1693年(元禄6年)、安龍福ともう一人の朝鮮人漁民が鬱陵島で出会った日本人に米子へ連れてこられるということが起こった。相手方の漁民を連れてくるというのは違法操業漁民の拿捕に似ているが、もちろんそうではなく、朝鮮側と合意の上連れてきたものと思われる。安龍福は仲間の朝鮮人漁民数十名とともに鬱陵島にいたところへ日本人が来たのであり、日本側が無理やり連行しようとしたのであれば、大ごとになったはずであるが、そのような形跡はなかった。

 では、合意があったのであれば、何が目的であったか。安龍福は日本語を話せたので、日本の政府に、鬱陵島への日本人の渡航を禁止してもらうためであったとか、日本側としては同人から朝鮮側の認識や状況を直接聞くためであったとか想像される。ともかく、日本人と朝鮮人の利害が対立する状況の中で、安龍福が平和裏に日本に来たことは注目される事実である。

 第二に、安龍福は日本に滞在中、かなりの厚遇を受けていた。隠岐の島では酒もふるまわれた。安龍福は米子へ連れて来られ、そこでしばし滞在した後、鳥取、長崎、対馬を経由してその年の末に帰国するのであるが、長崎へ向かう道中では「結構なごちそう」が出たと記している文書もある。しかし、長崎と対馬では待遇が悪くなったと、安龍福は帰国後に語っている。長崎や対馬ではかねてから多くの朝鮮人に接していたために、甘い顔をしない傾向があったことは想像に難くないが、それより興味深いのは鳥取藩での厚遇である。食事だけでない。安龍福は「尋問」されたことになっているが、鳥取藩の家老自身がそれに当たっている。「尋問」というより、日本語を話す朝鮮人から直接朝鮮事情などを聞きたかったのではないか。

 第三に、安龍福は帰国してから、2年半後に、10人の朝鮮人とともに、大きな旗を押し立てた船でふたたび鳥取の赤崎灘にやってきた。今度は連れてこられたのではなく、自分たちで渡航してきたのであったが、何の目的であったのか。第1回目よりもさらに不思議な感じがする。実は、安龍福の最初の帰国直後に、日朝間で鬱陵島に関する正規の外交交渉が始まっており、今回の来航はその最中であった。諸研究は、安龍福がこの再度の来日で語ったことの信ぴょう性、あるいは達成したこと、あるいはできなかったことなど事実関係の解明に焦点を当てている。それも重要であるが、安龍福の第2回目の来日目的は、今日の言葉で言えば、日本政府に圧力をかけるためではなかったか。これも興味深いことであるが、さらに安龍福には日本へ行って、意見を述べても危険な目に合うことはないという一種の安心感があったように思われる。それは日本側に対する信頼感でもある。元禄時代の日朝関係はよほど平和で安定していたのであろうか。

 なお、第2回目の来日の際にも、鳥取藩や幕府は冷静に対応した。安龍福らは約1ヵ月半、鳥取藩に滞在した後無事帰国の途に就いており、冷遇された形跡はない。実は、安龍福は帰国後捕えられており、本国では、今は英雄となっているが、当時は事情が違っていたらしい。

 第四に、安龍福の行動が日朝関係に役立ったか、確かめるすべはないが、政府間の外交交渉では結論が出た。それが冒頭に紹介した、鬱陵島は日本の領土でないという幕府の判断である。現在問題になっている竹島(当時の「松島」)については、わが外務省は、幕府は鬱陵島と違って日本人の渡航を禁止しなかったと説明している。しかし、これには研究者からの有力な反論がある。

 幕府と朝鮮側との官民の外交交渉は日本の外交史としても非常に興味あるものであり、外務省も含め研究者によって光があてられ、歴史的事実が解明されることを期待したい。