コラム 外交・安全保障 2012.11.28
衆議院の総選挙が近づくなか、核問題にも議論が及んでいる。この際、わが国の「非核三原則」の意味をあらためて確認しておきたい。
非核三原則とは核兵器を「持たず、作らず、持ち込まない」というものである。世界には非核を標榜している国が日本以外にもかなりあるが、日本のように「持ち込まない」ことを原則の一つにしている国はまれで、通常は「使用しない」である。核の世界では、この違いは小さくない。
非核三原則は大きく言って二つの観点から見ていく必要がある。一つは、核兵器のない世界が実現するまでの間、地域的に核兵器をなくしていこうとする流れである。たとえば中南米地域では、核兵器の実験、使用、製造、取得、貯蔵、設置、配備などすべて禁止する条約(トラテロルコ条約と呼ばれている)が成立しており、しかも核保有の米、ロ、英、仏および中の五ヵ国もその条約に加盟・批准して、この地域の非核化を担保している。したがって中南米地域は完全に核兵器のない地域となっている。
中南米地域以外にも、南太平洋、アフリカ、東南アジア、中央アジアなどで非核化を目指す条約が締結されているが、核兵器国の参加の点で問題が残っており、完成には至っていない。しかし、核兵器のない世界を実現することが困難な状況の中で、地域的に非核化を実現していくのは現実的な方策として積極的に評価されている。核兵器不拡散条約(NPT)はそうすることが各国の「権利」であるとしているが、実際には奨励していると言ってよいだろう。
問題は北東アジアである。ここにはロシアと中国という公認された核兵器国が存在しているので、地域全体を非核化することは不可能である。この二カ国を除いた残りの国で非核化地域を実現すべきだという主張もあるが、すぐ隣に巨大な核兵器国があるのでは現実的に意味をなさない。そこで朝鮮半島、モンゴルおよび日本は個別に非核化に取り組んでいるが、その場合、それぞれの国をめぐる安全保障環境によって影響を受ける。これが第二の観点である。
朝鮮半島では1992年に非核化宣言を行った。これは基本的には意図表明であり、いまだ実現しておらず、今や北朝鮮は事実上の核兵器保有国となっている。
モンゴルは朝鮮半島と同じ年に単独で非核化宣言を行ない、6年後の1998年に、国連総会はモンゴルの宣言を承認する決議を無投票で採択した。モンゴルの非核化宣言も意図表明であるが、核保有国を含め国際的に支持されたことの意義は大きい。なお、モンゴルではさらにその2年後に、国内法を制定し、非核化を法的な義務とした。
日本の非核三原則は1967年、佐藤首相によって打ち出された。モンゴルや朝鮮半島の非核化宣言より40年近く前のことであり、単独の非核化宣言という意味では先輩格であるが、「核を使用しない」ではなく、「核を持ち込まない」とした点が違っていた。
日本では、非核三原則が定められた背景に小笠原諸島さらには沖縄が本土復帰する過程があり、それが実現した場合、これらの島に存在していたと推定される核兵器は本土復帰後も残るのではないかと国会で厳しく問われていた。それに対して日本政府が行った回答が核は「持ち込まない」であり、「持たない」「作らない」こととあわせて非核三原則としたのである。
日本としては、核の抑止力に依存しており、「核を使用しない」と言えば抑止力はなくなるので、そこまで踏み切れなかった。ちなみに、中国が核実験を初めて行ったのが1964年であり、また、60年代の後半は、NPTの交渉が行われる一方、日本が米国の核抑止力に依存することが明確化する重要な時期であった。
しかるに、核を「使用しない」ことはNPTの交渉時からかんかんがくがく議論されており、核を保有しない国に対してはそのことを条約で明記すべきであるという主張も強かった。小笠原や沖縄の返還交渉はまさにそのようなときに行なわれており、「使用しないと言わない」ことは「使用する」ことだと取られる恐れがあった。この二つの表現は同義語でないことを確かめていただきたい。もちろん微妙なことであるが、政治的な意味では大きな違いであった。
実際には、日本政府は核を「使用する、しない」については何も言わず、ただ「持ち込まない」にして切り抜けてきたのである。しかし、「使用しないと言わない」ことが積極的に認められたのではない。唯一の被爆国として日本が核問題にどのような姿勢で臨むか、国際社会の目は厳しいが、さはさりながら日本が米国の核に依存せざるをえない状況にあることは黙認するほかないと、一種浪花節的に見ていたのである、と私は思う。日本の非核三原則は国際社会から無条件に祝福されているのではない。それを発表した佐藤首相に対してノーベル平和賞を授与したのは誤りであったとする意見が公然と出たことを忘れることはできない。
しかるに最近、核積載の米艦船の日本寄港問題をきっかけに、「核を持ち込まない」という表現は核の抑止力維持の観点から問題があるので、三原則を修正して二・五原則とか二原則にしてしまおうという意見が出てきた。これは原則の表現を実態に合わせる点では意味があるかもしれないが、実態は何も変わらないどころか、日本の苦渋の選択を国際社会にさらけ出し、あらためて「核を使用する」ことに対する日本の態度に注意を向けさせる恐れがある。そうなれば世界の浪花節理解者も従来通りの態度では済まなくなるだろう。非核三原則の数をこの期に及んで縮小修正することはとても賢明なことと思えない。核について議論することは結構であるが、国際社会との間で存在するこの微妙な関係を軽視してはならない。日本の信用にもかかわることである。