メディア掲載  グローバルエコノミー  2012.05.17

戦略物資としての食料

NHK第一ラジオあさいちばん「ビジネス展望」 (2012年5月15日放送原稿)

1.TPP交渉と関連して、食料は戦略物資なので、国内農業を守るべきだという主張がなされています。
 戦略物資とは、「一国の安全保障上または戦争遂行上不可欠で、その帰趨を左右するほど重要な影響を及ぼす物資、資源をいう」とされています。こういう意味での戦略物資に食料が当たることは、日本だけでなく、どの国でもそうだと思います。しかし、現在の議論は、もう少し違った意味で使われているようです。それは、食料の輸出を禁止することで、特定の国を困らせ、自分の言うことを聞かせようとすることがあるという意味です。つまり、食料を、外交上または軍事上の手段として戦略的に使う可能性があるというのです。
 その例として、2008年、インドなどが穀物輸出を制限したことがあげられています。しかし、これは食料を外交上の手段として戦略的に使用したものではありません。2008年は、小麦などの穀物の国際価格が高騰した年です。自由な貿易に任せると、穀物は価格が低い国内から高い価格の国際市場に輸出されます。国内で安く買って、海外で高く売れば、もうかるからです。そうなれば、国内の供給が減少します。需要は同じで供給が減ると、価格は上昇します。その結果、途上国の貧困な国民は経済的打撃を受けます。食料価格が2倍、3倍になると、所得の5割を食料に支出している人は、食料を買えなくなってしまいます。インドなどの途上国はこれを防ぐために、防御的に輸出制限をしたのです。決して、他国に戦略的な打撃を与えようとしたのではありません。


2.2008年には、世界的に食料危機が叫ばれましたが、日本ではどうだったのでしょうか?
 穀物の国際価格は、価格が上昇する前に比べて3倍も上昇しました。しかし、食料品の消費者物価指数は前年に比べ2.6%上昇しただけです。これにはいくつか理由がありますが、国内の飲食料の最終消費額は2005年で73.6兆円、このうち輸入農水産物は1.2兆円にすぎないことが大きいと考えられます。輸入農水産物の一部である穀物の価格が3倍になっても、最終食料品価格には大きな影響を与えないのです。逆に、2009年には穀物の国際価格は低下したのに、食料品の消費者物価指数は前年に比べ0.2%上昇しました。輸入農産物価格の変化が食料品の消費者物価指数に与える影響は少ないのです。確かに、フィリピンなど、穀物を輸入している途上国では、大変な騒動になりました。しかし、日本のような経済力のある国では、パンの価格が少し上がったので、米の消費がわずかに増えたという効果しかありませんでした。ハイチでは大変なことが起こったという人がいますが、経済力のないハイチと日本を比べることは適当ではありません。
 つまり、国際価格が上昇しても、日本のような経済力のある国では食料危機は起きないということです。こうしたケースでの食料危機を防止するためには経済力を維持することが一番重要な政策です。


3.穀物の主要輸出国が、食料を戦略的に使った例はないのでしょうか?
 世界最大の農産物輸出国はアメリカです。日本は、アメリカから、消費量のうち、トウモロコシの9割、大豆の7割、小麦の5割を輸入しています。
 食料を戦略的に使った場合ではないのですが、アメリカは1973年大豆の輸出を禁止したことがありました。今では大豆が不作になったからという説明がされますが、これは間違いです。ペルー沖で取れる、畜産の飼料用のアンチョビーが不漁になったのです。このため、アメリカではアンチョビーの代わりに、大豆から油を絞った後にできる大豆かすを飼料として使うことにしたのです。アメリカは国内の畜産農家への大豆供給を優先するため、わずか2ヶ月間でしたが大豆の輸出を禁止しました。このため、味噌、豆腐、納豆、醤油など大豆製品の消費が多い日本は混乱しました。困った日本は、広大な土地を持つブラジルに対して、大規模な農地開発を援助しました。この結果、ブラジルの大豆生産が急激に増加し、今では、大豆輸出を独占してきたアメリカを超えようとするほどの大輸出国になってしまいました。
 食料を戦略的に使った例として、対ソ穀物禁輸があります。1980年アフガンに侵攻したソ連に対して、アメリカは穀物の輸出を禁止し、制裁しようとしたのです。しかし、ソ連はアルゼンティンなど他の国から穀物を調達しました。アメリカ農業はソ連市場を失ったのです。あわてたアメリカは、翌年禁輸を解除しましたが、深刻な農業不況を招く原因となりました。
 アメリカのような輸出国が、禁輸をすると、別の輸出国が利益を受けてしまいます。アメリカは食料を外交上の手段として戦略的に使うことはできないことに気付いたのです。また、かりにできたとしても、アメリカが同盟国である我が国の存立を脅かす措置をとることは考えられません。


4.では、日本で、食料危機が起きることを心配しなくてもよいのでしょうか?
 日本で生じる食料危機とは、お金があっても、物流が途絶して食料が手に入らないという事態です。これは東日本大震災で生じましたし、最も重大なケースは、世界全体では食料生産能力が十分あったとしても、日本周辺で軍事的な紛争が生じてシーレーンが破壊され、海外から食料を積んだ船が日本に近づけないという事態です。つまり、我が国にとって食料安全保障とは、海外から食料が来なくなったときに、どれだけ自国の農業資源を活用して国民に必要な食料を供給できるかという問題です。このためには、農業の維持が必要ですが、その手段として、関税で守るというやり方ではなく、財政からの直接支払いという方法もあります。食料危機をあおるのではなく、どのような政策が望ましいかを議論すべきだと思います。