コラム  外交・安全保障  2011.10.04

リビアと米国は仲直りできるか

 リビアでも多数の市民が自由と民主化を求めて立ち上がった。カダフィ大佐は装備の良い軍隊の力に頼ってしぶとく抵抗を続けてきたが、ようやく決着がつき、反カダフィの国民評議会により新政府が樹立されることとなった。各国はすでに新体制を承認し、また国連でも国民評議会がリビアを代表する政権として正式に受け入れられている。カダフィ大佐はまだ拘束されていないが、それも時間の問題と思われる。
 リビアの革命を成功させるのに欧米諸国が強力に支援した。主導的役割を演じたのは英仏両国であり、米国は意図的に一歩退こうとしていたが、その存在はやはり大きかった。リビアにとって米国との関係はこれからも決定的に重要であろう。
カダフィ大佐時代のリビアと米国の関係は一種異常な状態にあった。両国の確執がとくに激しくなったのは1980年代に入ってからである。リビアの戦闘機や艦船が米軍によって先に撃墜、あるいは撃沈させられたので表面的には米国が攻撃を仕掛けた形になっているが、事件が起こった場所はすべてシドラ湾であり、リビアはその全域を領海と主張して米艦船を挑発し、公海だとする米側が反撃したというのが真相のようである。
 カダフィ大佐は米国に報復して、1986年4月、ベルリンにある米兵行きつけのディスコを爆破し多数を殺害した。怒ったレーガン大統領はカダフィ大佐を「中東の狂犬」と罵倒してトリポリとベンガジを爆撃し、40人以上のリビア人が死亡した。
 この頃、リビアに限らず中東各地で危険な事件があいついで起こっており、北朝鮮はその翌年に例の大韓航空機爆破事件を起こしている。それから数ヵ月後にはホルムズ海峡でイラン航空機655便が米海軍のミサイルにより撃墜され、乗っていた290人(うち66人は子供)が全員死亡した。
 それからわずか5ヵ月後の1988年12月21日、スコットランドのロッカビー上空でパンナム103便が爆破され、乗客243人と乗組員16人、巻き添えになった付近の住民11人が落命した。米国人の犠牲者がもっとも多くて200名近くであり、次は英国人であった。3年間にわたり、1万5千人の証人からの聞き取りを含む大々的な調査が行なわれた結果、2人のリビア人が容疑者として挙げられた。
 1992年、安保理は爆破テロを強く非難し、リビアに対して制裁措置を課した。裁判には長い時間がかかったが、2001年、スコットランドの裁判所はメグラヒ(リビアの情報工作者)を有罪と判定し終身刑を言い渡した。
 リビア政府はまもなく賠償金の支払いに応じる姿勢を見せ始め、2003年、リビアの国連大使は安保理議長宛書簡で、リビアに罪はないが事件はリビアの官員が行なったと認め、被害者の各家族に1千万ドルの賠償金を支払うことに合意した。リビアはこの年の12月に大量破壊兵器計画の廃棄も発表しており、それまでの喧嘩腰の姿勢を改め協調的になる気配も示し始めていた。
 一方、メグラヒは爆破したことを認めず、その後も控訴、控訴却下、再審請求、却下、再審の再請求と複雑な戦いを行なっているうちにリビアの革命が始まってしまったのであるが、メグラヒは末期の前立腺ガンですでにこん睡状態に陥っているそうである。それでもジョン・ボルトン元国連大使などは米国の厳しい世論を代弁して、裁判はあくまで貫徹しなければならない、国民評議会は英国での再審のためメグラヒの移送に協力すべきであるとBBCに息巻いているが、評議会側は移送しないと明言しており、結局裁判での決着は宙に浮いたまま幕が下りることになるのであろう。
 残るはカダフィ大佐の処分である。パンナム機爆破事件については国民評議会もリビアが起こしたことをすでに認めており、アブドルジャリル議長(旧政権の司法大臣であった)は、カダフィ大佐が直接メグラヒに爆破を命じた証拠を持っていると語っている(2011年2月23日、スウェーデンのExpressen紙に対し)。
 カダフィが拘束されると、人道に対する罪などで訴追される公算が大きい。これが当面の問題であるが、カダフィの処分が終われば米リビア関係は正常化するだろうか。一抹の疑念が残る。
 カダフィはリビアのナショナリズムを利用して、あるいはそれを煽って米国と抗争してきたのであるが、リビアのナショナリズムがなくなったわけではない。さらに、リビアは民主化しても内部には宗教的にも、石油の利権に関しても複雑な状況があり、中国の関与も無視できなくなっている。このように考えれば、リビアがこれまでと打って変わって米国と友好関係を構築していけるか、道は大きく開かれたとはまだ言えないようである。