メディア掲載  グローバルエコノミー  2011.10.04

穀物の国際価格上昇と食糧危機

社団法人内外情報調査会(会報誌)10月 Vol.55 に掲載

 小麦、とうもろこし、大豆などの国際価格が上昇している。2008年に大幅に高騰し、過去最高価格をつけたのち、価格は低下したが、2010年半ばから再び上昇し、2011年9月2日現在の価格は価格上昇前の2006年秋に比べて2~3倍となっている。

世界に食料危機は起きるのか?
 穀物の国際価格が高騰すると、必ず食料危機が唱えられ、警鐘を鳴らす専門家がメディアに登場する。その一方で、世界の食料需給はひっ迫しないという主張を行う専門家もいる。どちらが正しいのだろうか。
 食料危機は生じないという主張の根拠として、世界に耕作されていない農地が豊富にあることや窒素肥料の多投により単位面積当たりの収量(単収)は増加する点が挙げられる。しかし、農地が豊富ならば、農産物価格が上昇すると作付け農地も増加するはずなのに、そうはならない。ブラジルにはセラードという広大な未開発の土地があるが、生産物を港まで運ぶ道路などのインフラが整備されなければ、農地として利用できない。窒素肥料もエネルギーの制約があるので無制限に生産できない。しかも、窒素肥料を多投したりすれば、地下水汚染など環境に甚大な影響を与えるので、持続的な生産は不可能となる。
 では、食料危機は起こるのだろうか。需要は確実に増加する。世界の人口(胃袋)は20世紀初めの16億人から2000年には61億人となり、50年に92億人となると推計されている。さらに、途上国の経済成長による穀物消費から畜産物消費への移行は、畜産の飼料として使用される穀物需要を大幅に増加させる。石油の価格が上昇していくとバイオマス燃料の生産のための農産物需要が高まる。これに対して供給については、農地面積の拡大はほとんど期待できないうえ、これまでの人口爆発を支えた穀物単収の伸びは1960年代の3.0%から1970年代2.0%、1980年以降1.5%とだんだん低下している。世界の需要増に供給が追いつくことが困難であれば、食料価格は上昇する。
 しかも、需給が過剰基調であっても、世界の穀物価格は高騰することがある。穀物生産のわずか15%程度しか貿易されないなかで、供給は天候等により大きく変動するからだ。73年には4%の生産減少が穀物価格を3~4倍に高騰させた。
 加えて、各国の政策がこの変動をさらに大きくする。国際価格が低迷しているときには、各国は関税などで海外の安い農産物から自国の市場を守ろうとする結果、国際市場が縮小するので、価格はさらに低迷する。逆に、国際価格が高騰する場合、途上国で農産物輸出が増加すれば、国内の供給が減少して価格は国際価格と同じ水準まで上昇する。貧しい国民が食料を購入できなくなることを心配する途上国は、輸出税や輸出禁止を導入し、国内消費者への供給を優先する。この結果、世界の供給量が減少し、価格はさらに高騰してしまう。2008年にはフィリピンなどで大変な食料危機が発生した。

実感されない食料危機
 しかし、我々日本人のどれだけの人が、食料危機を実感しているのだろうか。
 08年に小麦などの国際価格が06年秋に比べ3倍以上高騰したが、国内の消費者物価指数はわずか4%上昇しただけだった。この時もメディアは食料危機が起きると盛んに報道したが、そのような実感を持った人は少なかったはずだ。確かに、小麦の値段が上がったので、パンやスパゲッティの価格も上昇したが、価格が上昇しなかった米の消費は増加した。消費者物価指数はその後低下し、国際価格が上がっている2011年7月現在で2006年を1%上回るのみである。とても食料危機を実感できる数字ではない。なぜ、穀物の国際価格が上がっても国内の食料品価格は上昇しないのだろうか。
 一つは、小麦の国家貿易制度に原因がある。国産の小麦生産コストは極めて高い。このため、政府は外国産麦を安く輸入して製粉メーカーに高く売ることで得た差益で、国内の小麦生産者にそのコストと製粉メーカーへの販売価格の差を補てんしている(図参照)。
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 つまり、パンやスパゲッティの原料となる小麦の価格はもともと国際価格よりも高くなっているのだ。国際価格が上がると、外国産麦の製粉メーカーへの販売価格も上げられるが、この価格と国産小麦生産コストの差の補てん額も縮小し、必要な差益額も少なくて済むので、それほど製粉メーカーへの販売価格を上げる必要はない。  05年と08年を比較すると、外国産麦の輸入価格はトン当たり27,955円から62,598円へ2.2倍に上昇しているが、製粉メーカーへの販売価格は48,097円が72,893円へ1.5倍に増えただけである(差益単価は2万円から1万円へ減少している)。
 もう一つは、穀物の食料品価格に占める割合が低いことである。国内の飲食料の最終消費額は2005年で73.6兆円。このうち農水産物は国内生産9.4兆円、輸入1.2兆円、合計10.6兆円にすぎない。輸入農水産物の一部である穀物の価格が3倍になっても、最終食料品価格には大きな影響を与えない。
 しかし、食料危機の実体がないのに、なぜ人々は不安を持つのだろうか。それは、他の財と異なり、食料が身体や生命の維持に不可欠な財だからだ。一年間十分に食べたから翌年は食べなくてもよいというものではない。一週間でも供給が途絶すると飢餓が生じる。平成の米騒動の際は、百年前の大正の米騒動の時より食生活に占める米の比重は大幅に低下しており、また、パン等他の食料品は潤沢にあったにもかかわらず、米が足りないというだけで、主婦はスーパーに押しかけた。
 もちろん、日本でも、困っている人は少なくない。世界的な不況や東日本大震災によって、職を失ったり、所得が減少したりして、生計をようやく維持している家計が増加している。食に対する国民のニーズも、安い食品を探したり、外食から内食に移行したりする経済性志向が高まってきている。途上国だけでなく、日本国内においても食料品の購入が困難な人たちが増えてきているのだ。
 農林水産省は、世界の穀物価格が将来上昇するとして食料危機を煽っているが、小麦の例でわかるように、国際価格が低いときでも関税などで高い食料品価格を国民に負担させているのは、農政自身である。国際価格より高い価格を支払わされている消費者の負担は、4兆円で消費税の1.6%に相当する。TPPに参加すれば、関税がなくなり、貧しい家計の負担は減少する。農産物価格が下がっても、アメリカやEUのように補助金を交付すれば、生産者は不利益を受けない。しかし、価格に応じて販売手数料収入が決まる農協は影響を受ける。これがTPP反対の構図である。

日本で起こる食料危機
 所得の高い人も含め、日本で生じる可能性が高い食料危機とは、お金があっても、物流が途絶して食料が手に入らないという事態である。これは東日本大震災で生じた。最も重大なケースは、世界全体では食料が潤沢にあっても、日本周辺で軍事的な紛争が生じてシーレーンが破壊され、海外から食料を積んだ船が日本に寄港しようとしても近づけないという事態である。一時的には備蓄で対応しても、事態が長期化すれば、食料生産に必要な農業資源、特に農地が確保されていなければ飢餓が生じる。
 戦後、人口わずか7000万人で農地が500万ヘクタール以上あっても飢餓が生じた。農地は1961年に609万ヘクタールに拡大し、その後も公共事業等により105万ヘクタールの農地造成を行った。714万ヘクタールあるはずなのに、現実には459万ヘクタールの農地しかない。現在の水田総面積とほぼ同じ250万ヘクタールもの農地が、耕作放棄や宅地などへの転用によって消滅したのである。莫大な転用益で農家は潤ったが、食料安全保障に赤信号が灯っている。現在の農地では、肥料や農薬も十分にあり、天候不順もないという条件に恵まれた場合に、イモと米だけ植えてやっと日本人が生命を維持できるだけである。農業界や農政が、食料安全保障に不可欠な農地資源の維持を真剣に行おうとしないで、農業保護を確保するためにだけ、食料危機や食料安全保障の主張を利用してきたからに他ならない。