コラム  外交・安全保障  2011.08.30

核の平和利用と放射能事故

 この夏、核の平和利用と放射能事故を議論する二つの国際会議に出席した。どちらも主たるテーマは核軍縮であったが、東日本大震災に起因する放射能事故にかんがみ、特別のセッションが設けられたのであった。
 脱原発か、原発維持か、また、これに関連してエネルギーの安定供給、放射能の危険性、原子力発電のコストなどいくつかの重要論点があり、それぞれについて甲論乙駁があるのはいつものことであるが、福島の事故は日本の問題か世界の問題かということがとくに印象的であった。
 一般には、「福島の事故は日本の問題であるが、諸外国も強い関心を持っている」と思われているであろう。しかし、各国からの出席者と議論していて私は少し考えを修正した。彼らはたんに強い関心を持っているというだけではなく、むしろ自分たちの問題とみなしており、日本で事故が起こったのであるが、それは事故が起こった場所がたまたま日本であったということで、日本が現場で外国はそうでない、というのではなく、世界の問題であると見ていると思ったのである。
 これは私一人だけの感想ではない。そのように感じたことを会議の場で確かめてみたところ、あるパネリストは壇上で大きく肯いていたし、会議の外でもほとんどすべての人がその通りだと言っていた。なかでもヨーロッパの人たちは、 陸続きにあるチェルノブイリで大事故が起こったときの恐怖感を忘れないでいるためか、そのような感覚が非常に強いようであるが、壇上で肯いた人は米国人であった。
 しかし、現実の事故処理は国家が行う。また、外国政府が日本の事故処理に強い関心を持つのは世界の問題であるという理由からだけでなく、自国の安全保障など軍事的な問題と関係している可能性もある。 原発事故に強い関心を持つヨーロッパ諸国でも、だれもかれもが自分たちの問題と考えているわけではないし、マスコミの報道ぶりもおのずと日本とは差がある。したがって、実際のところは福島の原発事故は日本と世界の中間くらいのところにあると思っていたほうがよいのかもしれない。
 一方、日本以外の国で原発事故が起こった場合はどうであろうか。たとえば、中国では今後数十年の間に多数の原発が新設される予定であり、その数は三桁の台になる、つまり現在の日本の原発の数倍から十倍近くに増加すると推定されており、その安全性に日本としても強い関心を持たざるをえなくなるであろう。そこで事故が起これば、放射能に汚染された物質が黄砂とともに日本へ飛んで来るかもしれない。また、直接的被害でなくても、東南アジアに放射能が拡散する結果、日本に輸入される諸物資が汚染されることもありうる。これはたんなる頭の体操ではなく、現実にありうることとして考えておかなければならないのではないか。
 事故を起こした国が、起こしていない国のことをとやかく言うのは失礼かもしれないが、原発事故は世界の問題だと考えれば、中国であれ、インドであれ、発生した場合の危険について考慮しておくことは必要である。
 35年前、北京からそう遠くない唐山地方で強い地震が発生し大惨事となったことがあった。それまでは、中国、とくに華北地方には地震がないと言い伝えられてきたので大変なショックであった。大自然はやはり怖い。 それに、いわゆる「人災」の問題もある。日本でもこの原因による事故が起こっているが、中国での最近の鉄道事故などにかんがみるとこれもまた深刻な問題である。
 私は今次会議で「事故は必ず起こるという前提に立てるかどうかが決定的な問題だ」と発言した。事故が起こることをいたずらに予測したのではなく、事故が起こることを前提に対策を講じなければならないという意味である。これに対してフランスからのパネリストはその通りであるとしつつ、「事故が起きても大災害にならないよう確保することが重要だ」と応じていた。冷静なコメントである。
 明年、核の安全に関する国際会議が韓国で開かれる。テロ対策を重視した米国での会議に引き続く第2回目の会議であり、韓国政府は核の「安全保障(security)」のみならず、「安全(safety)」の問題も重視していきたいとしている。時宜にかなった考えであるが、「安全確保」のためには情報の公開・共有が必要である一方、「安全保障」の観点からは情報の公開に強いブレーキがかかりがちである。悩ましいところであるが、国際社会にとって「安全確保」のための対策強化は避けて通れない道である。