コラム  外交・安全保障  2011.01.24

わが北方に現れるロシア人

 お正月休みに司馬遼太郎の『菜の花の沖』全6巻を読んだ。
 江戸時代、何人かのロシア人が日本に来航してきた。私は、ロシアという国がよく分かっていなかったせいか、見知らぬ極寒の地から突然人が現れたという感じで見ていた。教科書も西欧の歴史を重視する関係上ロシアの事情はよく説明していなかったと思う。
 実際には、ラクスマン、レザノフそれにプチャーチンなどは皆ロシア皇帝の指示で日本に来たのであった。後に渡航する者は先人の経験を学んでいたらしい。ラクスマンとレザノフとは毛皮貿易を介しても関係があった。極東ロシアを管轄する行政の中心地イルクーツクには日本語学校が置かれており、かの有名な大黒屋光太夫も訪れたことがあった。日本語学校と言っても数名の漂流民が教師となっていた程度の施設であったが、当時としては珍しかった。光太夫が女帝エカテリーナ2世に謁見するのは1791年であったが、ロシアではその頃までに日本に関する知識がかなり蓄えられていた。
 一方、日本側はロシアのことをほとんど知らなかった。それは鎖国で門戸を閉ざしていたことが主たる原因であったが、北方に対して完全に「見ざる、聞かざる、言わざる」だったのではなく、間宮林蔵、伊能忠敬、最上徳内などは千島や樺太を調査しており、国際的に見ても第一級の業績を上げていた。
 このように以前はバラバラの知識であったことが小説を読んで日ロ両国関係全体の中で有機的につながってくるのは実に楽しい。
 時代は下って、昨年秋、ロシアのメドベージェフ大統領が国後島を訪問した。北方領土の返還を切に求める日本人にロシアの腕力を誇示するような行動であり、あらためてロシアとの関係の低劣さを思い知らされたが、日本とロシアは歴史的につねにそのような状態であったわけではない。
2百年も前に起こったことと今回の出来事を単純に比較できないのはもちろんであるが、後に『菜の花の沖』の主人公として取り上げられる高田屋嘉兵衛がロシア船ディアナ号のリコルド艦長により拘束され、先に日本側に捕えられていたゴロウニンらの釈放を実現するまでの1年余の期間、嘉兵衛とリコルドがそのために交渉・協力したことはメドベージェフ大統領の国後島訪問とは対照的であった。
 第一に、2百年前、ロシア人は非常に日本人に友好的であった。国民だけでなく政府、とくに宮廷もそうであったことについては大黒屋光太夫なども帰国後雄弁に語っていた。
 第二に、嘉兵衛とリコルド艦長は両国民がおたがいに信頼できる関係を築けるということを示した。リコルド艦長は嘉兵衛が「相当な人物である」(P. I. リコルド『対日折衝記』)ことを初対面のわずかなやり取りから見抜き、やがて艦長室で、つまり自分と同室で寝起きさせるようになり、また、嘉兵衛もリコルドを深く信頼するようになったそうである。
 第三に、双方はそれぞれ自己の気持ちを思い切り表に出すことも、また、抑制することも必要であることを認識しており、実際にそれを実行した。そうしても信頼関係は崩れなかったどころか、むしろ強化された。

 両国民がそのような関係になれたということは、ゴロウニンによる日本人のすぐれた資質に関する観察とともに世界へ伝えられた。それらはイエズス会の宣教師やオランダ人などによってヨーロッパに伝えられていた日本人のイメージを是正する役割を果たしたと言われている。ゴロウニンの拘束と嘉兵衛とリコルドの折衝は日ロ関係の歴史に輝く一大ドラマであったが、それは国際的な意義も帯びていたのである。
 今日、日本とロシアの間には、スポーツやバレーなどはともかく、政治や安全保障の分野では2百年前に両国のすぐれた人たちが築き上げてくれた積極的協力関係は残念ながら見られなくなっている。メドベージェフ大統領の国後島訪問もさることながら、ロシアからは北方領土を占有する根拠は戦争に勝ったことだという開き直りさえ聞こえてくる。そのようなことを言うロシア人には、ロシアが日ソ中立条約を破って参戦したことやシベリアで百万人近い日本人が非人道的な扱いを受けたことを想起して欲しい。
 そのようなことも言わざるをえないほど日ロ関係は現在低調であるが、これからの両国関係をすべて悲観的に見ていくことはしたくない。年の初めでもあり、過去においては両国間で優れた関係を築こうと努力したことがあったことをあらためて想起し、今後の関係改善を望んでいきたい。