コラム  外交・安全保障  2010.09.16

政治任用制度の研究(3):『政治任用』の環境整備(下)

シリーズコラム『政治任用制度の研究:日本を政治家と官僚だけに任せてよいのか』

 「政治任用」のポストを設ける場合、公務員の「特別職」とするのが一般的である。「特別職」・「一般職」の語は公務員制度言葉で、やや技術的な面があるが、要は、職業公務員制度の設計で念頭に置かれた者が「一般職」、公務員のうちでその制度に馴染まない者(「適用除外職」)が「特別職」であり、例えば、試験採用や、政治的中立性などの規定は、公務員である内閣総理大臣にはなじまないと考えられるわけである。(「選挙」で十分に「能力の実証」はなされるので、その他に「教養試験」は不要であり、また、議院内閣制の下で「政治的中立性」を求めることは困難であろう。)

 他方、政治の決定を忠実に実行する公務員の役割を事務次官以下の「一般職」に求めたいという欲求も不自然ではない。しかし、そこに危険なワナがあることにも留意しなければならない。前国会で「廃案」になった「国家公務員法改正法案」には、次官、局長、審議官を「同じ職制上の段階とみなす」こととする規定が含まれていた。この規定のココロは、ランクを下げる人事を楽にやりたいということにある。通常であれば、次官、局長、審議官といったポストは上下関係にあり、法律上の要件(客観的な実績不良など)を満たさなければ「降任」はできない。しかし、これらのポストを「同じランク」と「みなす」ことで、例えば、言うことを聞かない次官を審議官に移しても、同ランクの中の「異動」(横滑り)ということになり、「格下げ」ではないと言い張れるのである。しかし、一見うまくいくようだが、「一般職」である以上、部内での異動はできても、クビ(免職)は簡単にできないので、どんな仕事・どれくらいの給与を与えるかといった問題も生じる。また、異動に当たっては「適格性」によるというが、「思うように使えない」だけでは、その判断の客観性が疑われよう。

 趣旨にあった制度を考えるなら、やや極論になるかもしれないが、政治と命運を共にすることが必要(望ましい)と考えられる範囲の幹部職員は、すべて「特別職」としないと、円滑な人事が行えないことになるといえよう。

 ここで思い出されるのは、古い話になるが、かつて、初代の水産庁長官(厳密には当初3 カ月は事務次官が兼ねたが)の人事をめぐって、緊張感が生じた事件である。今から60年前の昭和25(1950)年、永江一夫農林大臣(社会党)の下、「民間人」の飯山太平氏が長官に就任した。同氏は、漁業経営者団体協議会の会長でかつて7年間水産局勤務の経験もある人物であったが、後任の森幸太郎大臣(自由党)との間で「行き違い」が生じ、「免職」に至ったというものである。新聞では「いやな女房には出ていってもらう」との大臣の発言も報じられている。「一般職」としての勤務実績の悪さ、適格性の欠如などが「処分理由」に掲げられた(具体的には、勝手に出張した、会議に出ずに代理を送るなど)が、後付け的な「理屈」を並べても、免職事由としては合理性に乏しかったようである。処分を取り消す判定が人事院によって出されることとなった。

 「特別職」であれば、任用に当たって求められる「能力」も、この人となら(この人を使えば)スムーズに仕事が進む、ということで十分であり、任用の期間については、政権と命運を共にすることも自然である。(ちなみに「一般職」にしつつ「任期」を定めればよいという議論がなされることがあるが、任期制は、「任期満了」によって当然に身分(地位)を失う仕組みである反面、「任期中」は身分保障がなされることに留意しなければならない。任命権者の交代と任期とは理論的に同一となりえないのである。)

 しかし、大きな難問がある。制度設計としては「特別職」が適切と考えられても、
 (1) 政治任用に相応しい人材は、どこでどのように育成され得るのか、
 (2) 我が国の雇用の流動性が乏しい現状で、政権と命運を共にした後の職はどうなるのか、
といった点である。

 公務外(例えば、シンクタンク等)での高度な人材の育成が可能となり、そのような人材の処遇が円滑となるような環境が整った社会を想定するというのは夢物語にすぎないのであろうか。

 

筆者紹介

鵜養 幸雄 (うかい ゆきお)
立命館大学公務研究科副研究科長・教授。1955年生。東京大学法学部卒。人事院勤務等を経て、2007年立命館大学公務研究科教授、2009年より現職。