コラム  外交・安全保障  2010.09.13

ピンクパンサーとモンテネグロ

 銀座の貴金属店を襲った後海外に逃亡していたピンクパンサーの一人が逮捕され、日本へ移送されてきた。モンテネグロ人だと言う。

 バルカンは日本から遠い。もっと距離の遠い国はいくらもあるが、バルカンには日本人は 少ないし、日本との貿易もわずかなので物理的な距離以上に遠いと感じるのであろう。モンテネグロはそのバルカンの中でも僻地であり、日本で報道されること などめったにない。久しぶりに話題になったのが強盗事件がらみであったのは不幸なことであり、その印象が次回モンテネグロが報道されるまで続くのは気の毒 である。私は、かつてユーゴスラビア駐箚の大使をしていたときにモンテネグロを何回か訪問したことがあり、日本の方にはモンテネグロのことを少しでもよく 知ってもらいたい。

 バルカンは14世紀以来オスマントルコに侵略され、ハンガリー帝国に接していた最北部 を除いてほとんどすべての地方がその支配下におかれた。その状態が約5百年続いたのでバルカンはトルコの影響を強く受け、今でも地方を旅しているとトルコ と区別がつかない音楽が流れてくる。

 ところが、トルコもモンテネグロだけは攻めきれなかった。人口は60万人くらいの小さい国である が、険しい山岳地帯であるのとモンテネグロ人が勇敢に戦ったためであり、泣く子も黙るトルコの強兵もモンテネグロ人の反撃に辟易し、退却して行ったそうで ある。一説にはモンテネグロ人はトルコ兵以上に凶暴であったと言われている。

 厳密にモンテネグロ人に限れば世界で知られている人はあまり見当たらないが、それはそ もそも人口が小さいのと、有能な人は外国へ出て行ってしまうためであり、セルビアの首都ベオグラードで活躍しているモンテネグロ人は多数に上る。私が在勤 していた時、バルカン第一のベオグラード大学の学長はモンテネグロ人女性であった。

 セルビアはモンテネグロの山岳地帯から東へ下りたところに位置しており、セルビア人と モンテネグロ人は同じ言葉を話す。彼らの間では別の民族だと主張する者がいるが、それは根拠があることか疑わしい。トルコとの関係の違いは歴史問題であ り、民族問題でないはずである。セルビア人の中にも、「我々はもとはモンテネグロ人であった」という人がいる。じつは、諸民族をどのように識別・区別する かは、バルカン全体にかかわる一大研究課題である。私は、民族問題に興味のある人には、ぜひバルカンへ行くことを勧めている。

 セルビア人も含めれば日本でも何人か知られているであろう。なかでも名古屋グランパス のストイコビッチが有名である。テニスでは、最近、世界ランクが最上位クラスの選手が何人か出てきている。スポーツ選手だけではない。交流電気の発明者ニ コラ・テスラはセルビア人であった。生まれはクロアチアだと言いはじめると話はややこしくなるが、テスラ博物館はセルビアの首都ベオグラードにあり、テス ラはセルビアの誇りである。彼も外国へ出て行った一人であり、米国で歴史的な研究成果を上げたが、直流の発明家エジソンとライバル関係にあったのと、テス ラ自身が天才肌で人との折り合いが下手であったため、結局不遇な生活を送ったそうである。

 モンテネグロ人もセルビア人も外国語はなかなか達者であり、ドイツ語、フランス語、英 語を不自由なく話す人も少なくない。日本に来て英語を教えていた人もいる。スラブ系の人から英語を教えてもらうのはふがいないと思われるかもしれないが、 日本人にとってはモンテネグロ人もセルビア人も外見上西ヨーロッパ人と区別がつかないという面と、彼らが外国語を達者に話すという面があると思う。

 言葉の問題は一例として挙げただけであり、総じて少しの学習(?)、わずかな準備で外国生活をやすやすとやってのける彼らの能力はたいしたものであり、私などは国際的とはこういうことかと何度も思わされた。

 国家としてのモンテネグロのことにもどると、日本との関係が薄いのは否定できない事実 であるが、友好関係を築いたことも、また逆に戦ったこともあった。ロシア皇帝アレクサンドル3世の即位式典の際(1882年)、有栖川宮がモンテネグロの ニコラ大公(実質的には国王)に日本最高の勲章、菊花大綬章を贈ったのが前者の例であり、日露戦争にモンテネグロの一部隊が参戦したのが後者の例である。

 再びモンテネグロのニュースを聞けるのはいつか想像もつかないが、有能な人たちのことであり、どのような姿で我々の前に登場してくるか楽しみである。