メディア掲載  財政・社会保障制度  2010.02.03

第十九回「ネットワーク外部性と貨幣の非中立性」

「ゲーデルの貨幣」-自由と文明の未来- 危機編 『週刊金融財政事情』 2009年12月21日号に掲載
金融活動のネットワーク外部性は検証されたか
 リーマンショックによるグローバルな金融市場の混乱は、金融システムのネットワーク外部性を劇的な形でみせつけた。「ネットワーク外部性」とは、個々の主体の影響がネットワークを介して遠い第三者にまで及ぶことをいう。ネットワークでつながったシステム(電気の送電網や金融機関の決済ネットワーク)では、システムを構成する個別の主体(変電所や金融機関)が故障すると、ネットワークを介して、(直接にはその主体とつながっていない)遠くの主体にも影響が及ぶ。金融危機では、情報の非対称性による「レモン問題」が市場を崩壊させた。ネットワーク外部性の極端な例ということができる。
 前回までは、金融システムのサービスを内部貨幣という形で概念化した。要点をまとめれば、「内部貨幣の生産には強いネットワーク外部性があることを金融危機が示した」ということである。筆者は内部貨幣という用語を金融機関が提供する決済サービス(つまり金融仲介サービス)と同じものとして使っているので、これは「金融仲介サービスの生産には、強いネットワーク外部性がある」ということと同値である。
 金融機関の決済サービス(金融仲介サービス)の生産に外部性があるかどうか、を検証した既存研究を探してみたのだが、いまのところ、マクロ経済学の文献では、理論研究でも実証研究でもそうした論文は発見できなかった。これは考えてみると不思議なことである。「金融仲介活動にネットワーク外部性がある」ということは経済学者や中央銀行関係者の間では常識といってよいはずである。しかし、マクロ経済学の文脈で、「金融仲介サービスの生産に外部性があるか否か」が理論構築やデータの実証で研究された形跡がみられないのである。貨幣経済の性質を知るうえで、金融活動のネットワーク外部性を研究対象として追究することは重要なテーマであると思われる。

金融危機が示すマクロ経済学へのヒント
 さらに興味深いことは、金融仲介のネットワーク外部性がマクロ経済学の新しいパラダイムを構想するうえで重要なカギになるかもしれないという点である。金融仲介のネットワーク外部性からフィリップス・カーブ(インフレ率の上昇と失業率の低下の相関関係)を導き出すことができるかもしれないからである。
 フィリップス・カーブはマクロ経済学の頭痛の種であった。「景気が過熱するとインフレになり、失業が減る(景気が悪化するとインフレ率が下がり、失業が増える)」という関係は、日常的に経験することである。インフレと失業の減少が正の相関をもつことは、フィリップス・カーブという関係にまとめられ、ケインズ経済学の正しさを証明する証拠の一つとされてきた。それが1970年代のアメリカ経済においてインフレと高失業率が共存する時期が続き、フィリップス・カーブは短期的には成り立っても、長期的には成立しないということがコンセンサスとなった。
 とはいえ、短期的にせよ、現実の経済ではフィリップス・カーブは強く確認され、そのことが金融政策の有効性の根拠であることは間違いない(フィリップス・カーブを無視した新古典派のマクロ経済学の理論からは、不況期に金融緩和をすることが有効な景気対策になる、という結論は出てこない)。短期のフィリップス・カーブは貨幣の非中立性とも呼ばれる。カール・ウォルシュの有名な教科書にも、マネーを増やす(インフレにする)ショックが失業を減らす、という短期的な貨幣の非中立性は米国経済で頑健に成立する、という趣旨の記述がある。
 金融政策について現実的な分析をするためには、短期的なフィリップス・カーブの関係を理論的に再現する必要があった。それに成功したのが、ニューケインジアン・モデルだった。ニューケインジアン・モデルは、価格の硬直性がフィリップス・カーブを生み出すという仮説を理論の土台にしている。しかし、金融危機は、金融仲介のネットワーク外部性の効果を再認識させるものだった。「価格の硬直性がフィリップス・カーブの原因である」というケインジアンの仮説を標準的なモデルの土台にすることには、大きな問題があるのではないか。もし、ネットワーク外部性が短期のフィリップス・カーブの原因にもなっているのだとすれば、価格硬直性ではなく、ネットワーク外部性という一つの要因で、通常の景気循環と金融危機とを同時に分析できるマクロ経済学の理論的フレームワークをつくれるのではないだろうか。
 ネットワーク外部性から短期のフィリップス・カーブを導き出す方法として次のような仮説が考えられる(厳密な理論化は今後の課題である)。消費者が消費財を購入する際に、現金による支払いか、内部貨幣(または金融仲介サービス)による支払いか、のいずれかが必要であると仮定する。そのとき、インフレ率が上がると、現金を保有することは不利になる(現金は、消費財に対してインフレ率と同じ率で価値を減らしていくから、インフレ率が高いと、現金は速く価値を減じる)。そのため、内部貨幣への需要が高まる。内部貨幣(金融仲介サービス)の生産にネットワーク外部性があるときには、内部貨幣への需要が高まると、「予想外に」内部貨幣の供給が増えることになる(それが外部性の意味である)。すると、消費財の購入が予想外に容易になり、消費財への需要も予想外に高まる。結果的に消費財の生産や雇用も増える。
 つまり、ネットワーク外部性が存在するときには、インフレ率を上げる貨幣的ショックによって失業率が減るかもしれない。ネットワーク外部性から短期のフィリップス・カーブが得られる可能性があるわけである。ネットワーク外部性の仮説を使えば、価格の硬直性を土台にせずに、景気循環、金融政策、そして金融危機を統一的に分析するための理論的枠組みが構築できるかもしれない。金融危機は経済学者に大きなヒントを与えてくれたといえるのではないだろうか。