情報の非対称性がレモン市場を生み出す金融危機で注目された「カウンターパーティー・リスク」とは、グローバルな金融市場がアカロフのいう「レモン市場」になった、ということである。ジョン・テイラー教授(スタンフォード大学)によるとカウンターパーティー・リスクは07年にはすでに金融市場に広がり、深刻化していたという(『脱線FRB』)。インターバンク市場で銀行に短期資金を貸したら借手が倒産して回収できないかもしれない、というカウンターパーティー・リスクは、中古車を買ったらポンコツ(レモン)かもしれない、というレモン市場のリスクと正確に対応する。どちらも、売手と買手に情報の非対称性があり、買手が著しく不確実性の高い状態におかれている、という点から問題が発生する。不確実性の源泉は、市場に優良資産(優良中古車)と不良資産(ポンコツ)が併存し、その両者が(所有者以外の)市場参加者にとって区別できないことである。
このように、レモン市場問題は、どのような資産市場でも起こりうる一般的な問題である。中古車市場でこの問題が起こっても影響は限定的だが、金融市場がレモン市場になると、どうして経済全体の生産や雇用が「百年に一度」の大収縮を経験するのか。資産価格の暴落によって、それまで蓄えられてきた富が消滅するという逆資産効果も大きいが、それだけではない。注目すべきもう一つの理由は、レモン市場問題によって取引できなくなってしまう資産が、内部貨幣として機能していたことだと考えられる。不良資産の発生が引き起こしたレモン市場問題によって内部貨幣が消滅したために、経済全体がマネー不足(流動性不足)に陥り、実物経済が混乱した。
悪貨は良貨を駆逐する
理解を助けるため次のような具体例で考えたい。住宅ローン担保証券(RMBS)が貨幣の役割を果たすようになった経済を考える。この経済では、消費者が消費財を購入するときに、現金で支払うことができるだけではなく、RMBSで支払うこともできる(つまり、売手はRMBSを現金の代わりに喜んで受け取ってくれる)経済である。この経済では、現金が外部貨幣、RMBSが内部貨幣の役割を果たしている。確認のため再度定義すると、外部貨幣とは、経済システムの外部で供給量が決まる貨幣である。政府が供給量を決める紙幣やコインが外部貨幣にあたる。内部貨幣は、民間主体が発行する資産が貨幣(すなわち交換媒体)の役割を果たすようになったもののことである。RMBSは民間金融機関が発行する債券であり、それが貨幣(消費財取引の交換媒体)の役割を果たすことは制度上は予定されていない。しかし、消費財の売手は喜んでRMBSを現金の代わりに支払い手段として受け取るかもしれない(その状況は、売手が後に何かを購入するか手となった際に、RMBSで支払うことが他の売手から拒否されない、と信じている場合に発生する)。つまり、RMBSについて貨幣の循環論法が成立すると、RMBSが実質的に貨幣となってしまうわけである。
この経済では消費財の総供給量に対して、現金の供給量は過小になっているとする。一方、RMBSの供給量は潤沢にあり、RMBSの供給量は消費財の総供給量を上回っているとする(簡単にするため、ここでは価格の変化は考えず、消費財の価格もRMBSの価格も1であると仮定しておく)。消費者は、手持ちの現金だけでは供給された消費財をすべて購入することができないが、内部貨幣のRMBSを支払手段に使えば、供給された消費財をすべて購入することができるということである。
RMBSが内部貨幣として流通している状態ならば、この経済では消費財の総供給はすべて消費者に購入されることになり、「総供給=総需要」が成り立つ。需要と供給にギャップは存在せず、経済は完全雇用状態にある。
ところが、住宅バブルが発生し、それが急激に崩壊したことによって、RMBSの市場に「不良資産」がまぎれ込んだとする。バブル前までは、優良なRMBS(デフォルトしない債券)しか存在していなかった市場に、不良なRMBS(必ずデフォルトする債券)が存在するようになってしまった。このとき、不良なRMBSの保有者は、その債券が不良だと認識しているが、保有者以外の市場参加者は、どのRMBSが不良な債券か、見分けることができない(情報の非対称性)。これは08年の金融危機時の市場の描写としてきわめて現実的なものだと思われる。この情報の非対称性のために、RMBSの市場はアカロフのいうレモン市場になる。そしてレモン市場化した中古車市場とまったく同じメカニズムで、優良なRMBSは取引されなくなり、不良なRMBSだけが出回るわけである。まさに「悪貨が良貨を駆逐する」状況のもと、RMBSの取引価格はゼロに収束してしまう。
こうした結果、消費者は、消費財を購入する際に、支払手段として現金しか使えない状況におかれる(RMBSを支払手段として使おうとしても、その価格はゼロなので、消費財と交換してもらえない)。このとき、中央銀行が現金の供給(流動性の供給)を極端に増やしたとしても、すべての民間の経済取引をまかなえるほどの量の現金は供給できないとする(これも現実的な仮定であろう)。すると、消費財の総供給に比べて現金で購入できる量は過少にとどまることになり、総需要が総供給よりも小さい状態、すなわち「不況」が発生する。そこでは、消費や生産や雇用は落ち込む。若干の数式で計算すると、内部貨幣が消滅した状況では、レイバーウェッジも悪化することがわかる。
この例では、不良資産の発生が内部貨幣の消滅をもたらし、その結果、貨幣量が不足する。貨幣の不足が、総需要が総供給を下回る状況を生み出すのである。金融危機のメカニズムをこのように理解すると、求められる政策対応のあり方もおのずと方向性が決まってくる。
(次回に続く)