メディア掲載  財政・社会保障制度  2009.11.11

第十三回「貨幣の生成と消滅」

「ゲーデルの貨幣」-自由と文明の未来- 危機編 『週刊金融財政事情』 2009年11月9日号に掲載
経済変動と貨幣
 ある資産について、「その資産を、だれもが他の財貨といつでも交換してくれる」とだれもが信じる状況になれば、その資産は貨幣としての役割を果たすことができる。これが岩井克人氏のいう貨幣の循環論法であった(第12回・11月2日号)。
 この循環論法が示す状況を、もう少しいいかえると「ある資産について、『その資産を、容易に市場で現金化できる』とだれもが信じる状況」ともいえる。この状況は、ある資産が市場において流動性を高めた状況である。つまり、ある資産が貨幣になるということは、その資産が流動性を得ることの結果であるといってもよい。
 ある資産が流動性を得たり、流動性を失ったりすることは(現在のような金融危機においてだけではなく)通常の景気循環の下でも頻繁に起こる現象であり、だれもがよく知っていることだ。しかし、事の本質は「流動性を得た資産が、(実質的な貨幣として)他の財貨の取引を媒介することにより、経済の資源配分を変える」という点にある。ある資産がこの媒介機能を得ることは、一種の外部経済効果と考えるべきであり、この面については、標準的な経済分析では成功裏に扱われてこなかった。「ある存在が貨幣であるのはそれを貨幣であると万人が認めるからだ」という貨幣の循環論法は、まさに外部経済効果として認識するしかない(清瀧・ライトのモデルでもそうであった)。そして外部経済効果の生成と消滅(つまり貨幣の生成と消滅)のプロセスを動学的に扱う理論モデルは、筆者の知る限り、まだ十分に発展していない。
 貨幣の生成と消滅を理解することは、たんに学術的な関心事ではなく、現実の経済政策にも大きな影響を与える可能性を秘めている。政策対応を要する経済変動の原因がそれとかかわっているかもしれないからだ。つまり、「ある資産(金融機関の債務や不動産など)が(市場で流動性を得た結果として)交換媒体としての媒介機能を得る」という外部経済効果が、景気変動の一つの要因かもしれない。これは、今後の経済学の研究のなかで、真剣に検討されてしかるべき一つの仮説ではないかと思われる。

景気循環の要因は何か
現在の標準的な枠組みでは、「生産性の変化」と「賃金などのマークアップの変化」が景気循環を引き起こすおもな要因とされている。生産性や賃金マークアップなどの変化とみなされている現象も、実は貨幣の生成消滅によって起こっているのではないか、と思われるのである。
生産性の変化は、新古典派の「実物景気循環理論(リアル・ビジネス・サイクル・セオリー)」で、景気変動の主要因とされる。日米はじめ各国のマクロデータを使った新古典派的分析では、生産性の変化で景気変動のかなりの部分が説明できることが示されている。また、1930年代のアメリカの大恐慌や90年代の日本の長期不況を引き起こした要因としても、生産性の低迷が大きな役割を果たしていたことが示されている。一方、ニュー・ケインジアンが重要視する要因は「賃金などのマークアップの変化」である。これは労働の限界生産性と限界代替率とのギャップであり、労働市場が完全競争から乖離し、独占的になっている度合いを示している、とされる。マークアップの逆数は、レイバーウェッジ(Labor wedge)と呼ばれ、新古典派の研究者たちも景気循環の重要な要因としてレイバーウェッジの変化に注目し始めている。
生産性の変化は、サプライ・ショックであり、マークアップの変化は典型的なデマンド・ショックである。景気循環論の研究では、どちらも、経済システムに外から与えられるショックであるとみなされてきた。生産性ショックもマークアップのショックも、それらを発生させる原因については、さまざまな理論仮説が提唱されてはいるものの、決定的な議論が確立しているわけではない。
 実質的な内部貨幣(信用貨幣)の生成と消滅から景気循環を統一的に理解することができれば、それは新たな理論仮説というだけではなく、強力な政策的インプリケーションをもつことにもなる。こうした観点から生産性ショックとマークアップ(レイバーウェッジ)を検討すると、貨幣の生成消滅がそれらの変化を引き起こしている可能性があるとわかるのである。本誌連載第5回(8月31日号)でも論じたが、企業が中間財の購入資金を調達する際の資金制約がマクロで悪化すると(たとえば、担保不動産の価値が下がるなど)、中間財の購入量が減り、最終財の生産量も減少するが、この現象は、マクロデータでは、生産性の低下として観測される。つまり、生産性ショックは、資金制約によって引き起こされる可能性がある。資金制約の強さが内部貨幣の生成と消滅によって変化するならば、生産性ショックも貨幣要因で生じるという仮説が成り立つ。
 さらに、レイバーウェッジの変化についても、同様に資金制約が原因となりうる。たとえば消費者が消費財を購入するときに、手もとの現金が限られているなどの流動性制約に直面しているとき、その制約がきつくなると、マクロのデータではレイバーウェッジが大きくなる(悪化する)ことになる。また、企業が賃金支払いのための資金調達において資金制約に直面している場合も、その制約がきつくなるとレイバーウェッジが悪化する。とくに前者の場合、労働市場と無関係な消費財市場での資金制約がレイバーウェッジを悪化させることは興味深い。いずれの場合も、貨幣の生成と消滅が流動性制約を変化させるとすれば、結果的にレイバーウェッジが変化する可能性があるということになる。
 景気循環の主要因とされる生産性とレイバーウェッジの変化が、内部貨幣の生成と消滅によって引き起こされるのだとすれば、通常の景気循環も今回のような金融危機も、マクロの経済変動は貨幣(実質的に交換媒体としての役割を果たす存在)の変化がおもな原因である、という見方が成り立つかもしれない。