メディア掲載  財政・社会保障制度  2009.11.11

第十一回「貨幣と金融政策」

「ゲーデルの貨幣」-自由と文明の未来- 危機編 『週刊金融財政事情』 2009年10月26日号に掲載
マネーが経済をゆがめた
シカゴ大学のロバート・ルーカス教授が示した見解、すなわち今回の金融危機の本質は銀行取付け(Bank Run)と同型のメカニズムによるマネーの消失である、とする見方は、経済学者の間で市民権を得つつあるように思われる。ルーカス氏だけではなく、ゲーリー・ゴートン氏など金融経済学の専門家も、今回の金融危機は銀行取付けと同じメカニズムである、と主張している。
この場合、消失したマネーとは、経済取引における交換媒体のことである。この連載で論じてきたように、交換媒体としての役割を中心に据えてマネーを経済モデルのなかに導入する議論は、政策分析の主流では起こらなかった。過去十数年で金融政策分析の主流の地位を確立したニュー・ケインジアンの枠組みでは、ほとんど「物価の硬直性」が、実物経済に対してマネーの存在が影響を与える唯一のルートと前提されてきた。
しかし、今回の金融危機は、物価の硬直性を通じた経済変動の増幅ではなく、交換媒体としてのマネーが消失したことで、大きな経済変動が起こりうるということをマクロ経済学者に再認識させたわけである。
これまで、交換媒体としての貨幣の性質を政策分析で使おうとした(おもに新古典派の)研究からは、現実の世界とはあまりにもかけ離れた政策提言が出てきた。このことが、マネーを交換媒体として導入する経済理論が政策分析の主流にならなかった大きな原因と思われる。その新古典派的な政策提言とは、「デフレを起こすのが最適な金融政策だ」というものであり、マクロ経済学の世界では、「フリードマン・ルール」と呼ばれる有名な話である。マネタリストの総帥として名高いシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授が、「貨幣が市場にもたらす摩擦をなくすには、貨幣のリターンと他の金融資産のリターンを同じにすることが最適だ」と述べたことからその名がついた。
フリードマンの議論は次のようなものである。経済取引の交換媒体として貨幣をもつ必要があるために生じる経済のゆがみは、貨幣に利子がつかないことから生じる。経済取引のために貨幣をもたざるをえない人は、債券を保有すれば得られたはずの利子が得られず、その分が遺失利益になる。これが経済全体にゆがみをもたらす。このゆがみを除去するためには、実質的に貨幣に利子がつくような経済政策を行えばよいが、物価を下落させる政策は、まさしく貨幣に利子をつける政策と同じである。したがって、交換媒体としての貨幣がもたらす経済のゆがみをなくすための最適な金融政策は、徐々に貨幣供給量を減少させ、物価水準を下落させるデフレ政策になる。これがフリードマンのロジックであった。

フリードマン・ルールの難点
フリードマンや新古典派の経済学では、価格の粘着性のない理想的な経済モデルを考える。そこでは、債券などの実質利子率は、経済の生産力や家計の選好によって市場均衡で決まるので、金融政策をどのように動かしても、変化することはない。一方、貨幣の実質利子率は、デフレ率と同じになる(たとえば2%のデフレが起これば、貨幣の実質利子率は2%になる)。したがって、デフレを引き起こす金融政策によって貨幣の実質利子率を変化させて、債券の実質利子率に一致させるようにすることができる。フリードマンは、貨幣による経済のゆがみを除去するための最適な政策は、債券と貨幣の実質利子率を同じにすること、すなわち債券の実質利子率(これは金融政策を変えても変化しない)と同じ率のデフレを引き起こすことである、とした(その場合、債券の名目利子率はゼロになる)。
フリードマン・ルール、すなわちデフレ政策が最適な金融政策になるという結果は、非常に頑健な結果である。価格の硬直性を理論の根幹においたニュー・ケインジアン理論以外は、ほぼすべてのマクロ経済理論でフリードマン・ルールすなわちデフレ政策が最適な金融政策になってしまう。それは、たとえば、貨幣を交換媒体として導入しているキャッシュ・イン・アドバンス・モデルのような新古典派のマクロ経済モデルであっても、次回解説する貨幣サーチ理論であっても同じである。
 しかし、容易にわかるように、現実の中央銀行の金融政策の議論で、フリードマン・ルールがまじめな政策の処方箋として取り上げられることはない。現実の世界で、中央銀行が故意にデフレ政策をとれば、経済活動は失速し、失業率を上昇させる。フリードマン・ルールが最適だという議論の前提には、債券や資本の実質金利は均衡の結果として定まり、金融政策で実質金利は変化しない、という仮定がある。この仮定が現実的ではないわけである。現実の世界では、デフレ政策(貨幣供給量を減少させる政策)は、利上げ政策を実施することであり、短期的には、企業や家計が直面する実質金利も上昇させることになる。その結果、生産活動が低下し、投資や消費も減少して、失業率が上昇してしまうことになる。いずれにせよ、フリードマン・ルールを最適政策と位置付ける新古典派の貨幣理論は、残念ながら「空理空論」という批判を免れることはむずかしく、現実的な中央銀行の政策論議に使えるようになるとは考えにくいわけである。
 金融政策(つまり、名目金利の変更)が、実質金利の変化をもたらすという結果を得るためには、価格の硬直性を仮定することが一つの方法である。それがニュー・ケインジアンであり、その枠組みは、過去十数年にわたって金融政策分析の研究で使用され、政策分析の標準的な枠組みとしての地位を確立した。しかし、リーマンショック後の金融危機で、その限界が露呈したわけである。
 フリードマン・ルールの呪縛を回避し、交換媒体としての貨幣の役割と現実の政策分析を結びつけるためのもう一つの方向性は、貨幣として紙幣や硬貨など(外部貨幣)だけではなく、信用貨幣を中心に据えることである。