コラム  外交・安全保障  2009.10.16

スレブレニツァ

 長有紀枝さん(難民を助ける会理事長・立教大学大学院教授)が書かれた『スレブレニツァ--あるジ ェノサイドをめぐる考察--』という385ページの大著がある。ご自身の博士論文を今年の初めにあらためて出版されたものと言う。

 スレブレニツァと聞いてそれが分かる人はほとんどいないであろう。日本では10人に尋 ねても、ひょっとしたら全員が不知と答えても不思議でないが、サッカーで有名なオシム前日本代表監督の母国ボスニア・ヘルツェゴビナ(以下ボスニア)とス トイコビッチ監督の母国セルビアが戦った場所であると説明すると、一般の日本人にも多少のつながりが出てくるかもしれない。これはちょっと(かなり?)粗 雑な説明で、この辺の事情に詳しい人にはおしかりを受けるであろうが、日本との関係を示すためであり、ご容赦願いたい。

 この町で1995年、大規模な虐殺事件が発生した。犠牲者の数は数千名に上ったと言わ れている。第二次大戦後五十年近く続いてきたユーゴスラビアが1991年から解体の過程に入り、スロベニア、クロアチア、それにマケドニアが先に独立を果 たした後、遅れをとったボスニアでも激しい内戦となり、その中で起こったことである。

 この紛争を解決し、あるいはその中で発生した大量の難民を助けるため、国連、各国政 府、NGO、プレスなどが協力した。我が国のNGOも大活躍した。スレブレニツァで起こったことについては国際犯罪の処罰をはじめいろいろな問題点がある が、国際的な紛争に対しNGOがどのような役割を果たしたかという点でもきわめて重要である。この関係で長さんの本の「おわりに」は必読だと思う。一般に 「おわりに」は読まない、読む時間がないという人が多いのではないかと思うので、あえて申し上げておく。

 スレブレニツァは近寄りがたい場所である。私は、2002年の春、任地セルビアの首都 ベオグラードからボスニアの首都サラエボへ旅行し、その帰りにスレブレニツァ訪問を試みた。仕事の関係上そこでの虐殺事件のことは聞いていたし、国連が出 した報告書にも目を通していたので、私にとっては必須の訪問地だったのである。しかし、訪問は実現しなかった。ウィーンからサラエボへ出張駐在している日 本大使館員によると、それは不可能ではない、しかし、実現するには事前に手続きをしておく必要があるし、しかも、在ユーゴスラビア日本大使が現地へ行くと なると種々面倒な問題が出てくる恐れがある、ということだったからである。

 スレブレニツァはなぜ近寄りがたいのか。ここはムスリム人が多い町であるが、ボスニア の一部である「セルビア人共和国」の中にあり、セルビア人によって囲まれている。そのように複雑な状況になったのは歴史的な理由によることで、バルカン半 島では隣村が異なる民族であることは決して珍しくない。「セルビア人共和国」も全体としてはセルビア人が多いのだが、部分的には異民族のモザイクになって いる。

 ボスニアでは現在平和が戻ってきているが、スレブレニツァは忌わしい大虐殺事件を後世 に伝える自然博物館のような場所になっており、セルビア人は、自分たちの仲間が犯した犯罪の現場なのでできるだけ静かにしておきたいという気持ちになるの であろう。もし、そのような気持ちが高じてその事件を否定などし始めるとボスニア政府も各国も黙っていないだろうが、外部から人が見に来たいと言うと極度 に警戒するのはわからないでもない。実はバルカンにはそのような場所がいくつかある。いずれもユーゴスラビア解体の過程で起こった悲しい歴史の証言現場で あり、我々は行ってみたい気持に駆られるが容易に近づけない。一種独特の暗い雰囲気を漂わせているところである。