非建設的な二項対立の図式ポール・クルーグマン氏とシカゴ大学教授のジョン・コクラン氏の論争は、非建設的な二項対立の様相を呈している。クルーグマン氏の論旨は、「現代の経済学は、市場はほとんど失敗しないという前提で、景気変動は中央銀行の金融政策だけで補正できる、と考えていた。ところがそれは間違いだった。金融市場は不安定で信用できない。財政出動で政府が介入しなければならない」というものだ。これに対して、コクラン氏は「(現代の経済学が金融危機を解明できなかったからといって)ケインズ経済学が金融危機の原因を解明したわけではない。財政出動で金融危機を解決できると示されたわけでもない。クルーグマン氏の議論は、財政出動に国民の支持を取り付けたい、という政治的動機をもった議論であり、経済学者への不当な中傷に満ちている」と反論する。
結局、クルーグマン氏もコクラン氏も、今回の金融危機の原因やその解決策そのものについてはほとんど論じておらず、昔ながらの「ケインジアン対新古典派」の二項対立の構図のなかでの論争になってしまっているようである。確かにこの論争はおもしろいのだが、今回の金融危機の解明そのものとは無関係である。
では、現代マクロ経済学の主流に位置する経済学者は、今回の金融危機の原因や性質をどのようにとらえているのだろうか。一般均衡理論に基づく現代マクロ経済学のパラダイムをつくった人物であるシカゴ大学のロバート・ルーカス教授が、9月18日にソウル大学で講演し、今回の金融危機についての見解を語った。ルーカス氏は、70年代にケインズ経済学を事実上葬った人物であり、クルーグマン氏がコラムや著書で目の敵にして攻撃している経済学者である。ちなみに、クルーグマン氏は、マクロ経済学の業績は少なく、貿易理論や地域経済学の専門家である(ノーベル賞の受賞理由もそれらであった)。万人が認めるマクロ経済学の専門家とは必ずしもいえないクルーグマン氏が、現代マクロ経済学を激しく攻撃するのは、(コクラン氏がいうように)現代マクロに対する無理解が原因の一端なのかもしれない。
ルーカス氏の見解はまったく教条的なものではない。クルーグマン氏が描く主流派経済学者のように「市場は常に完全である」とか「金融危機は政府や中央銀行の政策の失敗が原因だ」とか、現実離れした空理空論を弄することはなく、現実的なバランス感覚にあふれた見立てを披露してくれた。
ルーカス氏の見立て
危機は「マネー消失」が原因
ルーカス氏は、今回の金融危機の本質を「マネーの消失」であると、ひと言で言い表した。つまり、財貨の交換媒体(マネー)が急に消失したために、経済活動が阻害され、急速な不況が発生したというのである。この性質は1930年代の大恐慌とも相通ずる。大恐慌の時代も、銀行預金(すなわちマネー)が急激に減少していたことをルーカス氏は講演で指摘した。大恐慌の時代にマネーが減少したのは、銀行取付け(Bank Run)が起こったからである。大恐慌時には、預金保険もなかったため、預金者は銀行倒産をおそれて我先に預金を引き出した。その結果、経済全体でマネー(銀行預金)が消失したのである。
その後、1934年に預金保険が整備され、さらにグラス・スティーガル法によって銀行と証券を分離して、銀行が過度のリスクをとれないようにする金融規制の体系ができあがった。この銀行規制は数十年にわたって、大恐慌(すなわち全国的な銀行取付けの嵐)が再発することを防止した、とルーカス氏はいう。しかし、近年の規制緩和で銀行と証券の壁が取り払われ、金融工学の発展によって市場環境が変質し、銀行が過度のリスクをとる状況が発生した。
今回の金融危機では、預金保険があるため、預金の引出しに預金者が殺到することはなかった。しかし、預金保険で保護されていない短期の銀行債務は、急激に縮小し、金融機関は短期債務の借換えができなくなり、資金ショートに追い込まれた。保護されていない短期の銀行債務は、実質的に(大恐慌時の)預金債務と同じであり、短期債務の「取付け」が発生したのである。つまり、規制の外でいつのまにかマネー(短期債務)が自然発生し、それが経済活動の正常な運行に必要不可欠な存在となっていた。そのマネーが、住宅バブル崩壊で金融機関のバランスシートが悪化したため、倒産をおそれた債権者によって引き揚げられてしまった。結果的に、経済全体で急にマネーが消失してしまったのである。これがルーカス氏の診断である。
ルーカス氏は、米国政府や連邦準備制度の危機対策についても、非常に柔軟にポジティブな評価をした(クルーグマン氏が描く新古典派の典型的な経済学者なら、政府介入には教条的に反対を唱えるはずだが)。マネーが消失したのだから、経済活動を回復させるためには、マネーの供給を増やす必要がある。連邦準備制度が行った極端な金融緩和政策は、消失したマネーを補うために、中央銀行が貨幣を経済に供給する政策だった。危機に際して必要な政策だったのである。また、マネーを供給するという目的を達するうえで、「財政政策」と「金融政策」の区別はほとんど意味がない。政府の補助金や公共事業であっても、中央銀行からの貸出であっても、マネー不足の経済に対してマネーが供給されれば、それだけで効果がある。ルーカス氏は、教条的な財政政策無効論者ではなく、金融危機時には財政政策がマネーの消失を緩和する効果があることを認めているのである。
ルーカス氏は、「新しい科学的発見をしたふりをするつもりはない」と謙遜しているが、いずれにしても、銀行取付けと同じメカニズムによって、交換媒体としてのマネーが消失したことが金融危機の本質である、というのがルーカス氏の洞察である。それは筆者の見方と重なり合うものであり、本連載が追求しているテーマと一致するのである。