メディア掲載  財政・社会保障制度  2009.10.16

第八回「経済学は有益か(その一)―クルーグマンの挑発」

「ゲーデルの貨幣」-自由と文明の未来- 危機編 『週刊金融財政事情』 2009年10月5日号に掲載
「経済学者はいかにしてかくも間違えたか」
この9月は、経済学の有益性を巡る論争にいくつかの注目すべき動きがあった。口火を切ったのは、昨年のノーベル経済学賞受賞者であるポール・クルーグマン氏(プリンストン大学教授)だ。6日、ニューヨーク・タイムズのネット版に発表した「How Did Economists Get It So Wrong?」と題する長文のエッセイのなかで、現代マクロ経済学をほぼ全否定してしまった(注1)。この論文は、大きな反響を呼んだばかりか、経済学の信頼性を必要以上に傷つける事態になっている。これに対して主流派の経済学者ジョン・コクラン氏(シカゴ大学教授)が反論を書いているので論争の顛末を紹介する。
 クルーグマン論文は、ひと言でいえば、「やはりケインズ経済学は正しかった!」と主張するものだ。ケインズの経済学を否定してきた過去30年の現代マクロ経済学はまったく馬鹿げた間違いである、という主張を一般人向けにおもしろおかしく書いた。主流派の高名な経済学者の発言などがあちこちにちりばめられているが、ケインズ経済学を否定する彼らの言動は、いかにも間が抜けて現実離れした空理空論だったかのようにデフォルメされている。昨年の金融危機を予見も防止もできなかったという現実をバックに、クルーグマン氏は、1970年代以降のほとんどすべてのマクロ・金融経済学の発展をばっさり斬り捨て、主要な経済学者を笑いものにしているのだ。
 経済学「業界」の内輪もめを楽しみたいというゴシップ的な興味からみれば、大変痛快(?)な読み物である。このクルーグマン・エッセイの論旨は単純である。「今回の世界的な金融危機を予測できなかったから現代のマクロ経済学は間違っている。1970年代以前の古いケインズ経済学に帰るべきだ」というものである。
 この主張は一見わかりやすいが、しかし、よく考えるとかなり乱暴だ。飛行機事故が起こったからといって、航空力学が間違っていた、という証明にならないように、金融危機を予想できなかったからといって、マクロ経済学が間違っていたということにはならない。問題の具体的な原因を探り、理論を改善することが必要なのであって、単純に理論を全否定すればいいということにはならないはずである。しかも、現在の理論体系を否定したあとで、どうやって経済学を立て直すのか、という展望については、クルーグマン氏の意見は非常に曖昧だ。エッセイの最後にあげられたクルーグマン氏の提案は、「(経済学を根本的に変革するために)情報の非対称などによる金融市場の失敗や行動経済学についての知見を利用するべきだ」というようなもので、現代マクロ経済学を全否定したわりには驚くほど穏健で、新味に欠けた提案にとどまっている。
 こういう感情的な議論がプロの経済学者の世界に大きな影響を与えるとは思えないが、しかし、ノーベル経済学賞を受賞したクルーグマン氏の見解だけに、(経済学界の外の)一般社会はクルーグマン氏の判断を非常に権威あるものとして受け止めてしまう懸念がある(正確にいうと、クルーグマン氏は同じような文章を10年以上前の著書のなかでも書いているのだが・・・)。実際、ネット上ではいろいろな反響があったようだ。事態を見過ごせない経済学者も多いのではないか、と思っていると、クルーグマン氏に名指しで笑い物にされたシカゴ大学のジョン・コクラン教授がネット上で反論のコラムを書いた(注2)。

経済学批判に潜む政治的動機
ちなみに筆者はシカゴ大学在学当時にコクラン氏の授業を受けたが、記憶が正しければ、コクラン教授はサーフィンが趣味で、学者というよりカリフォルニアの海岸が似合いそうな長身で血気盛んなスポーツマン。やられたらやり返すカウボーイのような男である。コクラン氏のコラムは、最近の経済学への批判を考えるうえでも参考になる筋道の通った反論になっている(ただし、筆者はコクラン氏の見解がすべて正しいと考えているわけではないが)。
 第一に、「金融危機の原因や対策について、クルーグマン氏は何の考えももっていない」とコクラン氏は反論する。クルーグマン氏やその他のケインジアン的な傾向の経済学者が主張していることは、「現代マクロ経済学は金融危機の原因や処方箋を示せなかったから間違っている」「国債発行による財政出動というケインズ政策は有効だ」という議論である。クルーグマン氏達自身が、金融危機の原因や有効な対策について何かしっかりした分析を示しているわけではない。また、クルーグマン氏が財政出動の需要刺激効果を主張しても、(一時的な痛み止めの効果はあるかもしれないが)それが金融危機の原因を解決し、経済を完全に回復させる決定打になるとは示されていない。
 第二に、これはより本質的に重要な反論だが、「クルーグマン氏は、財政出動への国民の支持を取り付けたいという政治的な目的のために、財政出動に疑問を唱える現代の経済学と経済学者の権威を傷つけ、『彼らは信用できない』という印象を一般国民に植え付けようとしている。そのために、学問的に間違った議論を、わかったうえであえて書いている」というのである。クルーグマン氏は経済学者をやめて政治家になった、とコクラン氏はいう。
 コクラン氏の財政政策無効論も、細かくみると賛成しかねる点もあるので、「コクランが正しくクルーグマンが間違っている」とはいいきれないが、クルーグマン氏の経済学批判に政治的な動機が隠れているという洞察は、正しいように思われる。重要な点は、財政拡大というクルーグマン氏の政治的目標が、世界経済と経済学を正しい方向に導くとは思われないことである。
(次回に続く)
(注)
1 http://www.nytimes.com/2009/09/06/magazine/06Economic-t.html?_r=1
2 http://modeledbehavior.com/2009/09/11/john-cochrane-responds-to-paul-krugman-full-text/