メディア掲載  財政・社会保障制度  2009.09.15

第三回「貨幣と財政政策-隠蔽される論点」

「ゲーデルの貨幣」-自由と文明の未来- 危機編 『週刊金融財政事情』 2009年8月17日号に掲載
財政政策が増やすのは所得ではなく手元流動性
金融危機への対策を考える際に、財政政策の無効を主張するリカードの中立性は理屈としては強力だが、現実の世界の実感にあわないと感じる人も多いはずである。リカードの中立性とは、財政出動で政府が国民にお金を渡しても、将来の増税を見越した国民は、増税に備えてお金を蓄えてしまうため、結局、消費も投資も増えない、という主張である。
実際には、現金を手にすれば、国民はお金を使いたくなるはずだ、と(エコノミスト以外の)政治家など多くの人は考える。それはけっして人間が不合理だから、というわけではなく、経済学的に説明がつかなければならないはずである。しかし、古いケインズ経済学的な説明(財政政策によって国民の所得が増え、そのため支出が増える)は、リカードの中立性命題によって論破されてしまった。人間が基本的には合理的に将来を見通す存在であるなら、財政出動は基本的に効果をもたないことになってしまうのである。新しいケインズ経済学(ニューケインジアン)もこの主張を基本的に受け入れている。
  しかし、ケインズ自身は考えていたであろうが、その後の簡略化されたケインズ経済学のILMモデルのなかで忘れられた問題がある。それは、以下で論じる「流動性制約」の問題である。現実世界で財政政策が消費や投資を刺激する理由は、おそらく財政出動が流動性制約を緩和するからだと考えられるのである。
 「流動性制約」とは、多くの家計や企業について、手もとにもっている支払手段(現金や換金性の高い金融資産など)の量で、支出が制限されることである。家計や企業がなんらかの理由のために資金を借り入れることが困難な状況にあるとき、手もとに現金(あるいは現金に類似した支払手段)をもっていなければ、家計や企業は財やサービスを買うことができず、結果的に消費も投資もできない。このとき、政府が現金を補助金として家計にばらまいたり、公共事業を発注して企業に現金を支払ったりすれば、家計や企業の手元現金が増えることになるので、家計や企業は支出を増やすことができるようになる。このように、財政出動は(家計や企業の手元現金を増やすことによって)需要を刺激し、経済活動のレベルを引き上げることができるのである。財政政策は、家計や企業が直面している流動性制約を緩和することで需要を拡大する、という考え方である。財政政策による流動性緩和のメカニズムは、リカードの中立性と矛盾するものではない。リカードの中立性は、家計や企業が「流動性制約」を受けていない状況で成り立つ。つまり、家計や企業が自分の将来の収入の範囲内で、無担保で好きなだけ自由に借入れができる状況ではじめてリカードの中立性が成立し、財政政策は無効になる(ちなみに、ここでは日本やアメリカを対象に考えているので、大国の閉鎖経済モデルを考察するが、小国の閉鎖経済の場合、リカードの中立性を仮定しなくても、マンデル・フレミング効果によって財政政策が無効になることが知られている)。しかし、「流動性制約」があると、家計や企業は、自己の生涯収入の範囲内であっても、借り入れることができず、そのため現時点で消費や投資を増やしたくても増やすことができなくなってしまうのである。そのため、財政政策で流動性制約が緩和されれば、それまで(不合理な水準に制約されていた)消費や投資が増えて、経済活動が高まるわけである。
もう少しいいかえると次のようになる。財政出動で政府が国民に補助金をばらまいても、企業から財貨を購入しても、国民の生涯所得を増やすわけではない。政府が現時点で国民になんらかの支払いをして彼らの所得を増やしても、将来、それと同額の増税をして、国民の所得を同額だけ減らすことが予想されるからである(これがリカードの中立性命題であった)。だから、「財政出動をすると国民は自分の生涯所得が増えたと錯覚して、支出を増やす」という古いケインズ経済学の説明は基本的に間違っている。しかし、財政出動は国民の生涯所得を増やさないが、国民の手元現金を増やす。生涯所得が変化しなくても、現時点の手元現金が増えれば、(現金不足のために消費や投資ができないという流動性制約を受けていた場合、)国民は支出を増やすのである。

金融危機で露呈したマクロ経済学の欠陥
 財政政策は、所得を増やすのではなく、手元流動性を増やす、という違いは重要である。この点(財政出動が流動性制約を緩和するという論点)は、さまざまな経済学者が指摘しているのだが、なぜか経済学の歴史のなかで、マクロ経済学の骨格を支える基本的な柱と認められることはなかった。
むしろ、ケインズ経済学のILM分析では、財政出動の効果は所得をあげる効果をもつものであり、中央銀行による金融政策が、もっぱら貨幣的な機能(支払手段を経済全体に流通させることによる流動性制約の緩和など)を担うものである、という認識が固定化された。その固定観念が、「財政政策の真の効用は、実は、支払手段(貨幣)の提供にある」という考え方から経済学者の意識を遠ざけていたのではないかと思われる。現在のマクロ経済理論が財政政策をほとんど研究対象ともしなくなったことはもっともなことといえる。
今回の金融危機が教えているのは、そうしたマクロ経済学の現状が抱える問題点なのかもしれない。現実の金融危機の経験では、少なくとも危機の緊急時には、財政出動は明らかに必要な政策対応だった。その必要性を首尾一貫した理論体系のなかで説明できない現状のマクロ経済学の方に、なんらかの理論的欠陥がある可能性がある。そして、その理論的欠陥とは、マクロ経済学が支払手段(または交換の媒体)としての貨幣の役割を、中心的な論点として扱ってこなかった、という点に原因があるのではないか。この金融危機はそう示唆しているのではないだろうか。