コラム  外交・安全保障  2009.09.01

NGOの今昔

 現在当研究所で進めているプロジェクト「グローバリゼーションとNGO」の関係で、私が常々NGOの行動意欲に敬服していることを紹介したい。

 かつて私はユーゴスラビア連邦共和国(現在はセルビア共和国とモンテネグロ共和国に分 かれている)で大使を務めていた関係でNGOの方々と親しく接する機会があり、年若い日本人が難民のための奉仕活動や現地の復興のために尽力していること を知って驚き、また、同じ日本人として誇りに思ったものである。ある若い女性は、セルビア共和国第二の都市ニーシュで活動していた。詳しく説明すると長く なるので、そこでの生活は非常に困難で、私などは一刻も早く逃げ出したくなるような状況であったとだけ申し上げておく。

 その数年後、私はアフガニスタン復興支援担当大使としてカブールに初めて行き、そこの 状況はさらにひどいことを思い知らされた。あらかじめ聞いてはいたが現地に行くとやはり聞きしに勝る厳しさで、住むにも食べるにも不自由を極めるし、それ に非常に危険であった。セルビアでは治安は一応回復していたが、アフガニスタンではいつ爆発が起こるか分からない状況で、私が訪問した数ヶ月後ノルウェー の外務大臣一行が襲われたこともあった。

 ある日、カブールに日本人NGOが数名いると聞いてランチにご招待し、お話を聞くこと にした。すると現れた一人がニーシュで活躍していた人ではないか。私がいかに驚き、また、あらためて感心したか、ご想像いただけるであろうか。しかも、そ の人はカブールでなく、爆破された大仏で有名なバーミャンで主に活動しているということであった。アフガニスタンは危険な上、女性が活動するのに大変な不 便がある。女性は病気になっても夫の許可がなければ一人で病院へ行くことはできず、また、産婆さんがお産に駆け付けようにもまず夫の許可がなければ出かけ られない。アフガニスタンでの新生児の死亡率は非常に高い。女性の活動が不自由であるのは外国人であっても同じことである。

 話は横へずれるが、NGOと言うと、これまた欧米から流入してきたものという印象が強 いかもしれないが、そうではない。わが国にもかなり昔からNGOが存在しており、新撰組はその例であった。第14代将軍家茂が家光以来久々に上洛すること となり、当時治安の悪化していた京都で護衛を強化する目的で多数の浪士が送り込まれた。それだけであれば、NGOとは言えないが、幕府が定めた任務が終了 した後も近藤勇らだけは京都に居残り、京都の警備を自発的に買って出た。彼らがそうしたのは幕府政治に危機感を覚え自分たちも何とか役に立ちたいと願った からである。京都の警備は幕府体制下では京都所司代が担当することになっていたが、幕末に各地から浪人が入り込んで状況が悪化したため文久2年(1862 年)、その上に京都守護職が置かれ、会津藩主松平容保が初代として任命され警備の強化が計られた。

 このように制度上は幕府もそれなりの体制を敷いていたが、それでも十分でなく京都の治 安は改善しなかったので新撰組が活躍する余地があったのである。しかし、京都の人たちは最初彼らのことはなにも知らず、得体のしれない浪士が夜な夜な歩き 回っていると気味悪がったそうである。

 新撰組は後に幕府からも評価され、会津藩より一種の嘱託を受けるようになって生活が安 定したので、それ以降は純粋のNGOでなくなった。しかし、彼らは正規の藩士にはならなかった。新撰組のことを「傭兵集団」と言う人もいるが、隊士はいず れも幕府の安泰を願い、そのためであれば命も惜しくないという人たちばかりであった。これを「傭兵」と呼ぶのはその定義いかんによるが、適切でない。彼ら の具体的目標は今日のNGOと違っていたが、収入の心配よりも先に他人のために、あるいは自分たちの利益を超える大きな目標のために行動したという点では 共通点があった。ヨーロッパの歴史上有名なスイス人傭兵は収入を得ることを目標としており、それはツヴィングリが厳しく批判していたことに他ならない。