コラム 2026.01.06
私は若い頃からロダンが制作したブロンズ像「考える人」に関心を惹かれていた。
1970年代前半に日銀パリ事務所で勤務していた時には屡々ロダン美術館を訪れて「考える人」を鑑賞した。そしてその都度、中学生の頃に生物学の先生から「人間は自ら考えることによって猿から進化した」と教わったのを思い起こしていた。
時は移り、とりわけ1980年代央以降、情報通信革命が飛躍的に進展し、今日ではSNSやAIがフル活用される時代となっている。SNSで多くの情報を得ればそれ以上特に何もしなくても人々は直ぐに行動に移ることが出来る。また人々が難題を抱えても、AIがほぼ無限とも思われるような大量の情報をon lineで集積し、それを巧みに処理して直ちに人々の様々な問いに答えてくれるようになっている。
本当に便利な世の中になって、人々の幸せもそれだけ増したことについては疑いの余地が無いところである。
しかし本当にそれで済まして良いのだろうか。
SNSで情報を得れば、早く行動しないと他人に先行されるという気持ちを与えるかも知れないが、本当にそれで良いのか。情報は本来人々が考える為の材料であって、発射信号ではないのではないか。AIをフル活用し、そのメリットを享受するにしても、更にその先、人間の新しい生き方をどう模索すべきか、そして新しい社会をどう築き上げるか、この段階に到ると人々が自らの脳味噌を鍛え直して、悩みながら深く考え抜く以外に道はないのではないか。
私は大学生の時、法学部で学んだが、法解釈学や訴訟法学もさることながら、法哲学や法社会学により重きを置いて勉強したのを思い出す。今の大学でも哲学や社会学は重要科目であり続けているに違いないと思うている。
それだけではない。最近の音楽を聴いていると、リズムは激しいがメロデイーと詩が薄れて心に響いて来ないような気がする。人生に纏わる様々な事柄について機械的処理で済ませる部分が多くなればなる程、人々の悩みも少なくなり、それだけ幸せではあるが、その分文化が希薄化していることはないか、気に懸かる。
もっと大袈裟に言えば、人々が便利さだけに満足して、新しい夢を追うとか、新しい夢の実現を目指して将来へ向けて物事をより深く掘り下げて考え抜くというようなことがなくなれば、折角猿から進化して来た人間が逆に猿に向かって退化しないか。
これが90歳の大台に達した一老人の余計な心配である。