コラム 2025.01.07
新年おめでとうございます。神武天皇の即位をもって日本国の紀元とすれば、今年は紀元2685年に相当します。このように日本は非常に長い歴史を持つ国ですが、この間一貫して万世一系の天皇を仰ぐとともに、第二次大戦後を例外とすれば社会を組み立てる要素として「家」を大切にして来ました。
平安時代までは、天皇に直接仕える皇族が上流階級でしたが、皇族の中でも宮号を賜った「宮家」がその中核をなしていました。その後鎌倉時代からは武士が支配階級となり、「武家」が力を競う時代となりました。明治維新以降は庶民の時代となり、商人が力を振るう時代となった訳ですが、ここでも「商家」ということが強く意識されていました。どの商人も自らの事業を「家業」と認識し、責任感の裏付けとしていました。
これら全ての時代を通じて、代々「家」を継ぐことが何よりも大切であり、このため後継ぎの男の子を生むこと、男の子が生まれない場合は他家から男の子を養子として迎えることが欠かせない課題となっていました。この場合、家風に合う婿養子を捜すことは決して容易なことではなかったらしく、婿養子を斡旋する仲人業が栄えていた様子です。
ところが、第二次世界大戦敗戦後は一人一人が社会の構成要素となり、民法からも「家」の概念が消え去りました。つれて「家」を継ぐという理念も次第に薄れて来たように思います。
我々戦前派は、大人になったら家業を継ぐか、さもなければ自分の道は自分で築いてそれを後世に繋げて行け、という教育を受けましたが、戦後の若者は良い中学校へ行け、良い高等学校へ行け、良い大学へ行け、安定した大企業へ行け、という教育を受けました。その結果、家業は継がなくて良い、大企業の中で出来る限り出世せよ、無理に結婚したり子供を産んだりしなくても良い、挙句の果てには先祖代々の墓すら始末して仕舞っても構わない、という風に流れてしまったように感じられます。
諸外国の様子を見ると、最近では中国をはじめ少子高齢化に悩む国はかなり増えて来ているのが実情です。ただ我が国の少子高齢化はこのように歴史を否定したことに端を発した根の深いものであるだけに、的を射た対処策を見出すことはいずれの国に比しても容易でないと言えるでしょう。
ただ我が国の場合、国の事を「国家」と呼ぶ風習は残っています。国家という「家」を確りと引き継ぐために良い子孫を残せ、その子孫達の使命は未来に夢を託して新しい事業を起こすことだ、という教育理念を新たに打ち建てることとしては如何でしょうか。