コラム 2012.11.21
● インフレターゲットや国債の日銀引き受けなど、政府と日銀との関係について新聞紙面でいろいろな記事が目に着くようになった。私は、政治的な議論に直接関与する立場にはないが、通貨に対する信認、それと裏腹の関係にある国家に対する信認に絡む問題であるだけに、人々の間で真剣な議論がなされ、十分慎重に検討が進められることを願っている。
● 歴史的に振り返ってみると、自給自足、物々交換の時代を経て、人類の生活の知恵として通貨が生み出された。そして、通貨が人々から信用される基礎も、当初の素材価値(貴金属その他)から、発行者に対する信頼度へと次第に移行して来ている。その究極の姿が現在の金兌換保証なき紙幣(一片の紙切れ)である。
● この紙切れが人々から信用されるためには幾つもの条件を満たす必要があるが、その中で最も重要な条件は何かと問われれば、第一に、通貨の総量が経済の実態に即して適切に調節されていること、第二に、通貨発行主体の財務が健全であること、の二点を挙げることが出来るように思う。
● このように通貨は歴史の流れの中で自然に生み出されたものであるので、初めから通貨は誰が発行すべきか、と言ったような厳密な議論があったわけではない。
しかし、近代国家の成立が相次ぐ時代になって、一国において通貨を発行する権限を根源的に持っているのは誰か、それは国、即ち政府をおいて他にない、との考え方が一般的となり、政府の持つこの権限は「通貨高権」と呼ばれるようになった。しかし、政府が自国の貨幣や紙幣を全て発行してうまく行った実例がどれ程あったであろうか。現在も、政府の発行する通貨は額面の小さい補助貨幣に限られているのが通例である。
人々の信認は、通常は民間部門の主体に対するよりも政府に対する方が厚いとされているが、それでも税金を徴収せずに通貨発行で財政支出が賄えるとなると、政府と言えども規律を忘れがちとなり、政府の発行する通貨が人々から信用されなくなってしまう心配が付き纏う。
● むしろ過去には、政府以外のいろいろな主体が通貨を発行した事例が少なくない。とくに民間の銀行が政府から権限を授与されて紙幣を発行した経験は多くの国が共有している。
民間銀行は、預金者からの信用を基礎に成り立っているので、紙幣の発行を行なう場合には信用度の高い資産を見合いとしなければならない。預金者の監視の下で相応に規律が効いているわけである。それでも民間銀行は営利主体であり、商売上の利益追求をつい優先して規律を失う結果に陥ったケースも見られる。
そして、複数の銀行が紙幣を発行する場合、通貨総量調節の役割を何処に託すか、これもなかなか難しい問題である。
● 以上のような経緯を経て、人々は中央銀行という新しい仕組みを見出すに到った。世界で最初に設立された中央銀行はスウェーデンのRiks Bank(1668年)であり、次いで古いのは英国のBank of England (1694年)である。日本においては明治維新直後から準備が進められ、1882年(明治15年)に日本銀行が創設された。
中央銀行は、財政を司る政府でもなく、営利を追求する民間銀行でもない。このような中央銀行に紙幣(銀行券)を発行する権限と通貨全体を調節する権限を独占的に与えておけば、財政上の必要からも、営利追求上の必要からも離れ、規律ある通貨制度を確立することが出来ると考えられたわけである。
とは言え、中央銀行の場合も、その発行する銀行券は資産勘定に立つのでなく、民間銀行の場合と同じく負債勘定に計上される。中央銀行券は、人々にとっては資産であるが、当該中央銀行にとっては借金証文である。
従って、中央銀行も資産の健全性を保つことなく銀行券を無暗に発行することは許されないし、たとえどのような方向から強い要請があろうとも、経済実勢との対比で適正な範囲を超えて通貨供給を増やすことも許されない。
● それでも、国債は最も信用のおける金融資産と考えられており、今のようにデフレが長く続いている状況の下では、国債ならば中央銀行が無制限に買い入れて金融緩和を図っても大丈夫だ、と考える人が出て来ている。
しかし、国債が人々から信用されるかどうかは、偏にその国債を発行している政府が規律正しく財政運営をしているかどうか、にかかっている。最近の欧州の状況を見るとこのことが非常によく分かる。
また、政府が中央銀行に対して限りなく国債の買い入れを求めたり、中央銀行の国債買い入れを当てにして財政の箍を緩めたりすると、そのこと自体が国債の信認を大きく傷つけることとなってしまう。買入国債が赤字国債でなく、建設国債であっても、公共投資対象物件の耐用年数に応じて償還しなければならないことを考えると、この間に非常に大きな差があるとは言い難い。
そして何よりも、中央銀行自身が自律性を欠いていると人々が認識した途端、通貨に対する信認は一挙に崩壊することとなろう。
● 更に進んで、政府が中央銀行に対して国債の直接引き受けを求めると、どういうことになるか。
中央銀行が国債を市場から買い入れる場合には、その国債は一旦市場で発行されているので、その限りでは一応市場の篩にかかっている。しかし、中央銀行引き受けで発行される場合には、市場外の発行となるため市場の評価とは無関係に発行される。その行き着くところ、もし中央銀行が政府の申し出通りに国債を引き受けなければならないとすると、それは政府自身による通貨の発行と実質的には同じこととなり、財政規律が最も失われ易いケースとなってしまう。そして中央銀行は、自律性はおろか存在価値そのものに疑念を抱かせることとなろう。
● こうした危険を回避し、健全で持続的な金融・経済の発展を強固に支えるため、先進国においては国債の中央銀行引き受けを禁止するとともに、中央銀行の政府からの独立性を保証して、財政政策と金融政策の明確な分離を確立している。
日本においては、「財政法」(昭和22年法34)の規定が日銀による国債引き受けを禁止しており、また「日本銀行法」(平成9年法102)が日銀の独立性を明確に規定している。この二つの法律が、日本の通貨制度を近代的なものとし、通貨政策の健全性を担保している、ということが出来る。
● 日本経済がいくら厳しい局面に立たされていると言っても、苦闘を避けて安易な道を選び、政府による日本銀行への干渉を正当化したり、国債の日銀引き受けへの道を開くとすれば、それは、先進国の地位を自ら放棄するのみならず、公的部門の累積債務が異常に膨らんでいる日本の実情を踏まえて考えると、これらの施策は、狙い通りインフレ期待を呼び起こして景気刺激の効果を生む前に、投資家離れと市場金利の上昇を呼び起こし、財政破綻、経済破綻の危険を手許へ引き寄せる結果となる可能性の方が大きいものと推察される。
日銀の金融緩和政策が経済実態に照らして十分かどうか、政府の経済政策と整合性が取れているかどうか、これらは今後とも徹底的に議論されて然るべき課題であるが、功を焦って一線を飛び越えると、日本再興のために様々な苦労と負担をしなければならないと覚悟している人々の心情を裏切り、未来への夢や国益の全てを一挙に淵に放擲することとなってしまう。
● 「打ち出の小槌はない!」、もって瞑すべしである。