コラム  2026.08.06

黒田通商産業審議官の思い出

林 良造

黒田眞さんが4月に亡くなられた。

70年代から80年代のシンボルであった日米通商摩擦、その立役者が黒田眞さんだった。

タフネゴシエイターと恐れられ尊敬される、日本の勢いを象徴する存在であった。

いかめしい顔つき、本質を突く論陣、博識とさっぱりした人柄は、マンデル教授やグリーンスパンFRB議長など、分野を超えて内外問わず多くのファンを得ていた。

単なる交渉ではなくダイナミックな世界の通商秩序の形成を中心に置き、日本の行動を国際標準に合わせると同時にその正当性を世界に正面からアピールしていくスタイルは、欧米の政策担当者の間でも彼の交渉セッションには参加希望が絶えなかった。


80年代後半のレーガン政権では、スーパー301条など米国一国主義の流れが強まる中で、日米半導体協定やスーパーコンピュータ交渉など安全保障にもまたがる複雑で困難な交渉が連続した。

特に半導体問題はハイテク産業の帰趨を決める激しい国家間競争と通商交渉の末、最後に交渉責任者が交代する特殊なものとなった。また米国でも、あくまで市場原理に忠実な市場主義派と政府の関与を求める産業政策派とで交渉方針も揺れる中での交渉となった。その最終局面でUSTR・商務省・国務省3次官を相手に、時にフランス語も交えた黒田さんの交渉は芸術品であった。最後の段階でシェアの痕跡を嫌う米側交渉者の要望もあり、一部をChairman‘s Noteに落とすことにした。そしてその文言が決して市場シェアを約束したと取られないように知恵を絞った。時計を止めての交渉の最後の夜に部屋に呼ばれ「君は本当にこれで妥結してよいと思うか。忖度なしで答えてほしい」と、産業政策としての担当も長かった私に聞かれた。一瞬考えて「これで行きましょう」と答えたが、その問いの検証はいまだに心に引っかかっている。そして黒田さん自身は以後振り返ることなく前を向いて進んでいった。しかしその文言は、95年にヒルズ代表が「あの文言はシェアを約束したものでもなく制裁の根拠とはなりえない」として正式に解除するまで、制裁の根拠として使われることとなった。その間、ベニスサミットは半導体に乗っ取られたと評されるところとなり、GATTのパネル設置は、同時進行していた農林12品目に対する米国へのGATT提訴取り下げ交渉と見合った形で膠着状態となるなど不本意な点も多かった。

交渉中には誹謗中傷にもさらされたが、看過することなく、Moral High Groundに立って紙面で反論、世界に通用する言葉で立場を発信し続けた。特に、米国の一国主義とは鋭く対峙、交渉の席で「貴兄も1日に一度は反省したらよい」と言い放ったことも記憶に鮮明である。


後輩にとっては、将来あのようになりたいという強い憧れの存在であった。また、誰にも臆せぬ物言いや常に前を見て知的向上心を刺激するやり取りに、細田元衆議院議長以下多くの若手が黒田学校に集った。

個人的には、南仏のビジネススクールで日本の通商産業政策を開講し、奥様と家内を含めて3週間朝から晩まで一緒に過ごせたことは忘れえぬ思い出となっている。

思い出は尽きぬ一方、黒田さんがまいた種をどれだけ育てることができたかを思う時改めて自らの力不足を痛感している。


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