コラム  2022.08.05

スタグフレーションが帰ってくる?

林 良造

スタグフレーション、この耳慣れぬ言葉を最初に聞いたのは第一次石油ショックの直後であった。当時石油ショックに対して主要国は混乱の中で石油需給の統制と物価統制での危機対応を試みた。日本では石油二法が制定され、米国でも共和党政権下にもかかわらず所得政策(価格統制)がとられた。マクロ経済政策では、物価急騰と大規模な購買力の産油国移転に襲われた主要国間で、景気引き締めを行うのか景気刺激を行うのか対応は分かれた。日本は田中政権下であったが、福田緊縮財政が行われ米国は景気拡大を選んだ。これが変動相場制への移行直後であったこともあり、政策責任者の理解が追いつかない状況で様々な現象が先行していくこととなる。

まず変動相場制への移行後円高方向にあった為替は、石油ショック後は石油輸入依存度の高い日本の経常収支の悪化を受けて、ドル高円安方向に振れた。そして日本の製造業は、景気拡大に入った米国市場に向けて各社がこぞって輸出を拡大した。当時資本自由化に対応して株式の持ち合いが進行していたこともあり、各社は資本コストにとらわれず量的拡大を進めた。この結果、日本の経済回復とともに日米間の貿易収支の不均衡は拡大し、70年代後半には日米経済摩擦・グローバルなマクロ経済政策の調整問題が緊急課題となった。

当時G7サミット・日米高級事務レベル協議がスタートし、主要国は不器用ながら協調行動の模索を始めた。それは、日独の景気刺激を求める機関車論であり、貿易収支の不均衡の拡大を背景にした為替レートの調整から始まった。また、ガット東京ラウンドの中間総括では、世界的不況の中各国産業の保護を求める圧力に対し、第二次世界大戦直前の保護主義の蔓延とブロック化の記憶が残る主要国は、保護主義の防圧を唱えつつ輸出自主規制を含め現実的なセーフガード措置の模索を続けることとなった。

そして強い米国を唱えるレーガン政権が生まれ、ボルカー連邦準備委員会議長の下でインフレ対策を最優先に、20%という歴史的な高金利政策がとられた。強いドルが定着する一方、弱い企業経営者の交代を求める資本市場の圧力は強まった。その結果日本企業の輸出攻勢にさらされた米国企業経営者は不満を増大させていった。他方半導体の超LSIプロジェクトの成功を機に格段に競争力を強めた日本の機械産業は、円安環境下で対米輸出を拡大させていった。そして再度経常収支不均衡が深刻化し、為替市場問題・マクロ経済政策の調整問題・貿易問題・日米の企業行動の差異の問題・先端技術をめぐる主導権争いなど日米両大国の全面的な経済紛争に発展した。それがプラザ合意や日米構造協議などを経て、バブル崩壊とグローバル化への対応が遅れた日本の官民の構造的機能不全の中「失われた10年」が始まり、日本は人口減少局面に入っていった。

そして50年たった。今回の複合的危機の中の「忍び寄る」スタグフレーションではこれまで培ってきた知見は大きな武器である一方、世界経済の相互依存の深化、主役の交代、安全保障環境の違いによる政策協調の難しさには格段のものがある。その中にあって、少子高齢化の進む日本の競争力は34位まで低落し、株価は約25年前のピークに戻らず、実質賃金は20年間低迷し、財政赤字は突出し国債の過半は日銀が保有、為替は長期的円安基調へと変化している。政策への科学的アプローチと冷徹なプライオリティ付けが今ほど望まれるときはない。


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