コラム 2021.02.05
畏友澤リサーチ・オーガナイザーが他界してはや5年がたつ。彼は私の経産省生活の中でも最も肝胆相照らした一人である。今でも強烈に印象に残っているのは、退官後しばらくしての「これで天下りでもしたら一生軽蔑しますからね」との彼の一言である。常々親しい人には、経産省へのお礼奉公は現役のうちに済ませてあとは経産省と関係なく、政策人材の育成と政策alternativeが作れるシンクタンクづくりに打ち込みたいとい言っていたことが背景にある。そして彼もしばらくして多くの人がいぶかる中若くして退官し、東大先端研教授として大学改革に大活躍し、また短期間に様々な研究所を立ち上げていった。COVID19の嵐の中で、しがらみや惰性を排し政策に科学的アプローチをどのように反映させるかが大きな課題となった今、澤君との二人三脚を思い出す。
澤君とは情報政策で多くの思い出を共有している。例えば93年、社会資本整備としてスパコンやネット環境など情報インフラの整備に旗を振り始めたころ、補正予算をめぐって通産省自身の予算をとることをやめて、各省所管の情報インフラの整備計画を作って大蔵省と一緒にやってみようとの私のアイディアに彼は即座に賛意を表して、情報グループの補佐を組織し分担を決め毎朝30分の打ち合わせを定例化し、補佐を存分に働かせる仕組みを作ってくれた。
またやるべきことの多い中で、郵政省との足の引っ張り合いに精力を割くことはやめたいと相談したところ、当時信頼関係ができていた郵政省のチームとの間で「お互い相手の足を引っ張らない。ただしこの覚書は将来のチームを拘束するものではない。」との覚書を両省の統括課長間で締結することとしてくれた。おかげで我々の間では省庁を超えた信頼関係が続くこととなった。現在、日ASEANサイバーセキュリティ政策会合の議長を務めているのも、これが基礎となっている。
官房長時代には、新生経済産業研究所長に青木昌彦氏をスタンフォードから招聘し「霞が関の梁山泊にしましょう」と下働きをし、初代のリサーチ・オーガナイザーとして研究体制を作ってくれたのも澤君であった。翌年の人事の季節に青木さんが来られて、澤君だけは留任させてほしいと懇々と話していかれた光景は忘れられない。多忙な澤君にCIGSのリサーチ・オーガナイザーを頼んだ原点は、この時の澤君の強烈なイメージにある。
駒場の先端研では、総長補佐として大学改革の貴重な知恵袋となっていたが、本部棟の一角にあった私の研究室にもよく立ち寄って話し込んでいった。彼は通産省の工業技術院を大改組し、産業総合研究所と政策部局に再編するという機構改革を成し遂げ、経済産業研究所時代には「大学改革」という本をまとめている。また大学改革とともに、研究体制の改革や教育にも多くの情熱を傾けていた。そしてその生きざまは、経産省時代東大時代を通じ驚くほど多くの若者に強烈な影響を与えた。あの若さで逝かれたことは本当に悔しくてならない。
彼が約30年前、当時の通産省の情報グループの人たちと我が家に遊びに来た時に幸福の木を持ってきてくれた。めったに咲かないといわれる花が先日6回目の花を咲かせた。