コラム  2019.02.04

原油市場と米国の中東政策

林 良造

 米国の中東政策が世界の原油市場を揺さぶっている。石油は86年の逆石油ショック以降市場主導型の経済的商品と政治・戦略商品の二面性を持ってきた。

 最初の試練が1990年の湾岸危機であった。私が、国際共同備蓄を管理する国際エネルギー機関(IEA)を担当する国際資源課長になった6月当初は、地球環境問題が中心になるとの想定であった。就任最初の理事会に出席した後、米国とのすり合わせをしておこうと、その足で米国に向かった。

 ワシントンで降りる時に、後ろで移民だろうか英語がまともには話せないおばあさんにイミグレーションまで一緒に行ってあげるからといっている声が聞こえた。それが当時の国務省のエネルギー部門の代表者だったラムゼイ氏であった。やさしい人柄だなと思ってにこっとすると彼もウィンクをかえしてきた。

 その後、日本に戻ってまもなく、イラクがクウェートに侵攻し、国際資源課の仕事の優先順位も一変した。まず石油の確保が課題になり、多くの産油国からの申し出も殺到した。当時日本は、米国のイラン制裁の枠組みの中で輸入増量はしないという方針で折り合いをつけていた。

 そこに、イランから追加提供の申し出があった。その他、大口としてはメキシコからも同様の申し出があった。「イランは難しいかな」と思いつつ、ラムゼイ氏の顔を思い浮かべ、思い切って相談してみることにした。

 すると即座に「イランを引き取ってくれ。メキシコは米国の裏庭であり、そこから日本がとると議会を含め国民感情が悪化すると思う。他方、イランは米国は引き取ることはできない。世界の需給を見ると、イランからの増産は必要であり引き取ってくれるとありがたい。米国の制裁に関する問題については責任を持つから。」との即答であった。

 またその直後、サウジとクウェートの中立地帯で操業していたアラビア石油の米国の勘定が凍結されてしまった。陸上で操業していたテキサコはイラクに接収されたため米国がその勘定を凍結し、アラ石も同様の状況と判断されたようであった。

 「海上油田のアラ石は日本が操業を続けておりテキサコとは違う。」と言っても、財務省では判断しようがないと言う。そこで、サウジにも駐在経験があるラムゼイ氏に状況を電話したところ、すぐに理解をして財務省と話し即座に凍結は解除された。

 その後、毎月のIEAの理事会で米国代表団とはすっかり親しくなっていた。そして、年の暮れに米国のクウェート侵攻前の大統領の御前会議の席から、私の自宅に電話があり、「侵攻直後にパリに集まって協議というのでは全体の作戦とテンポがあわないので、侵攻と同時にIEAとして放出を行えるようにしたい。ついてはその方針でよいかすぐに返事をほしい」とのことであった。年末休みと内閣改造の直後の空白で誰もつかまらないままに時間がたったが、従来の授権の範囲内と解釈し、「了解。すぐにパリで集まろう」との返事を返した。

 そしてパリで英独仏のエネルギーと外交の責任者たちを含めた徹夜での交渉を経て、新たな合意ができた。おかげで侵攻直後に備蓄の協調放出ができ、瞬間的に35ドルを記録したものの市場の混乱も全くないままに沈静化した。

 それは私の通産省時代で最も緊張感あふれる一コマであったが、その時の絆はいまだに色あせずに残っている。


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