コラム 2025.04.07
尊敬する外務省の先輩がまた一人逝った。筆者の北京在勤時代の上司だった阿南惟茂大使である。先日、大使を慕う多くの仲間たちが三鷹市下連雀にある私邸に集まり、ヴァージニア未亡人からお話を伺った。
下連雀といえば、知る人ぞ知る、終戦直前の1945年8月12日、既に自決を決意していた阿南惟幾陸軍大臣が家族に別れを告げるべく久し振りに帰った私邸のあった場所。同日には元外相の松岡洋右や元首相の東條英機も来訪したという。
その下連雀で、阿南父子の生き様を振り返りつつ、阿南夫人から興味深い様々な逸話を伺い、困難な状況の下でリーダーは如何に振舞うべきかについて、深く思いを巡らした。という訳で、今回のテーマはリーダー論である。
遺書には「一死以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 花押 神州不滅を確信しつつ」と記されていたという。当時日本政府内は「無条件講和か、本土決戦か」で大いに割れ、血気逸る若手陸軍将校によるクーデターの噂もあった。惟幾大臣は、陸軍のトップとして、苦渋の決断を迫られていたのだ。
阿南大臣については、本気で本土決戦を求めたとの説もあるが、「終戦を望む天皇の真意を汲み終戦計画を遂行した」のであり、「降伏に反発する軍の暴発を阻止すべく、自身は抗戦派を装っていた」との見方が強い。阿南が降伏を認めれば抗戦派に辞職を強要され内閣総辞職となって降伏は実現しなかった、と後者は見るのだ。
2002年5月、脱北者一家4人が在瀋陽総領事館に駆け込んだ。阿南惟茂大使中国在勤中最大の事件だったが、当時この種の駆け込み事件は北京の欧州・韓国大使館・領事館でも発生していた。そうした中、5月8日惟茂大使は大使館内の定例会議で「不審者が館内に入ろうとしたら追い返せ」と指示したなどと大きく報じられた。
阿南大使は「ともかく来たら追い返せ。仮に『人道的に問題になって批判されても面倒に巻き込まれるよりはマシ』だ」と述べたとして批判的に報じられた。偶々、件の瀋陽での「駆け込み」事件が正に同日午後起きたこともあり、日本政府内部で批判の声が上がり、同大使の更迭すら検討されたという。
阿南大臣は国体護持と陸軍若手の板挟みになりながら、正しい決断を一人で下し、批判はされたものの、陸軍内の統制は維持され、結果的に戦後日本の安定の基礎を築いた。阿南大使も、批判はされたが、中国とのトラブル発生が必至だった「脱北者」から日本大使館を守るという、結果的に極めて正しい判断を一人で決断した。
以上二つのエピソードは、極限状態の下で、リーダーが如何に大局を見失わず、かつ、組織の一体性を確保しながら、中長期的に正しい判断を下すべきかを考える上で、極めて重要な示唆を我々に与えている。筆者はとてもそんな器ではないが、こんなリーダーになれたら良かったのになぁ、と反省する今日この頃である。