コラム  2024.05.08

いま問われるダイアローグの役割 ―時代の精神と語り部―

日下 一正

改めて仏の貴族の家系に育ったトクヴィルの「アメリカのデモクラシー(1835年出版)」を読み返してみた。

分断が進む社会で民主制が機能するのかどうかが今問われ、民主制の弱体化と一見勢いを増す専制体制のシステムの間で競争が進んでいるようにみえることがきっかけである。トクヴィルもアメリカ人の征服は働く者の鍬によって行われ、ロシア人は兵士の剣で行い、その手段も自由な行為と隷従だと対比している。著者の米国への旅行は米独立後60年、日本では開国への議論が起こり蛮社の獄に至る時代である。

絶対王政、宗教の支配を経て権威・アリストクラシーを無秩序に破壊しながら出現した欧州の民主制に対し、米の民主制が初期条件が平等という背景の中ですくすくと育っていっていることに対し、英仏植民地戦争を経て英国系が支配する米国に対して複雑な思いを持ちつつも、強い印象を受け、改めて欧州を考察するに至っている。

この時語られた「平等」に象徴された米国の民主制が、いま分断の中でどう機能するのだろうか? 9年前に友人のブルッキングス研究所の故Kemal DervisUNDP総裁たちとの議論で最も盛り上がった論点も「分断」が社会、経済、政治システムにどのような変革をもたらすかということであったが、現実の展開が識者の想定外のスピードとエネルギーで進み制御不能に陥らないであろうか?

トクヴィルのいう時代背景を受けて制度の発展、世界観の形成が行われるとの分析に照らして見たとき、日本での戦後の民主制は明治、大正の北風の中で育った経験が語り継がれず、戦後教育を受けて、団塊の世代以降の歴史観、経験の蓄積が起こったように見える。戦中を経験した世代が口を閉ざし、また「失敗」の分析を自ら行うという習慣の欠如も歴史を語り継ぎにくくしている。

高度成長期、70年代のエネルギー危機とそれに対応しての脱石油、原子力、省エネの展開、バブルとその崩壊、失われた30年と繋がってきたが、これらをプロフェッショナルとして経験した経済人、ジャーナリスト、政治家は現役を卒業している。

経験から学ぶという観点からは米国も、ヴェトナム戦争で米議会は役割を果たせなかったのではないかとニューヨーク外交評議会で直後に研究が行われ、原子力事故ではスリーマイルアイランドの事故を受けて大統領の報告書が出され、高給を払えない政府の規制当局でなく、民間の保険会社の専門家と圧力で安全を担保する仕掛けも生み出した。BPのメキシコ湾原油流出事故でも企業文化の分析と事故発生日”Day 1”は事故の当日ではなく、12年前の取締役会の判断に有るという目から鱗が落ちる指摘を含め原子力のように保険の圧力が活用できないかの議論がなされた。

今回、19世紀半ばの本からの語り掛けに触発されて筆を取ったが、私の大学紛争時代の経験も有り最も感銘を受けているのは、”Three days in May”と銘打って1968年の大学紛争をきっかけに半世紀以上に亙り”Global cross-generational dialogue”を学生30人の運営母体で続けているスイスのSt. Gallen Symposiumである。

育った世代が国として成長期で自分の世代はより良い世の中になると信念を持ったり、低迷している時代に育つと現状維持に傾くことになると指摘されている中で、世代を超えて、語り部として語り継ぎ、次の世代とのダイアローグ或いは、価値観を異にするグループとの対話を起こす「対話のすすめ」を提唱したい。


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