コラム  2025.05.08

彼我の差

氏家 純一

バブル景気の頂点近くで日本を離れ、ブラック・マンデーの余韻さめやらない米国へ、現地法人経営の為に赴任した。

直後に「何かおかしいな?」と違和感を覚えたのは、我が国企業の進出に対する金融人の醒めた見方に関してである。エクソン・ビルやロックフェラー・センターを始めとするトロフィー不動産の取得、ユニバーサル・スタジオやCIT等名門企業への買収・投資が相次ぎ、マスメディアには羨望まじりの警告や批判があふれていた。だが、金融界の受け止めは違った。「しばらく持っていてくれるなら、それも悪くはない。」との口振り。数年後、日本企業は投げ売りに走り、米国側はこれ幸いと買い注文で応じた。よく知られたペブル・ビーチも含まれており、当初感じた違和感は、数年で解消されていた。

次に「何か変だな?」と感じたのは、同業者達の動きが少しずつ見えてきた赴任から2年目の頃、経営者の新人に対する態度の違いに関してである。学部卒の新人はデータ収集や図表作成などで2年ほどは馬車馬の如く働き、学費を補う収入を得ながら基礎的なスキルを磨いて大学院に戻る。修士や博士の新人にも1~2年ほど下働きをさせるが、早い時期に実戦に投入されて結果を出す者もいる。学部卒も大学院卒も、習得した知識と幾らかの知恵、そしてやや根拠不十分な自信と誇りではち切れんばかりで、それ故に希望も要望もオーバーサイズになる。この希望と要望とに対する経営者の態度には彼我の大きな差がある。駐在時も、本社の経営や大学の経営を経験した今日でも、この感覚は消えていない。

金融を例にとろう。金融業の希少な資源は、いつでもどこでも資本(Capital)である。したがって、どの部門、どの個人に資本を配分するかで事業の成果は大きく異なる。自信満々の新人は、大学や大学院で習得した知識を、例えばトレーディング・アイディアやM&A戦術等に仕立てて、資本の配分を要求する。残念ながら、多くは、モデルに理論的な誤りを内包していたり、現実のデータとの乖離があったり、単なる思い込みの集積であったりして、付与された資本をすぐに失う。にもかかわらず、モデルを改良したとかデータを修正したとかで、臆面もなく上層部のドアを何度もたたく。学んだことをすぐにでも試して成果を出したいと張り切る新人達に対し、用心しつつも希少な資本を与える経営者達がいる。こうした経営者達の忍耐と勇気に、ある種の感慨と敬意を覚えた。

金融業に限られるものではなかろう。「大学で学んだことは一回忘れて」とか「修士は応用が効くが博士は固まりすぎて」といった言を日本の経営者達から聞くが、この彼我の違いはどこから生まれたのか。計測方法に異論もあろうが、我が国大学の競争力は長期的に低下している。運営交付金も逓減する中、外部競争資金を獲得しようと学問と研究の「社会実装」を唱える大学が多い。だが、社会においては、新人達の学びと意欲に対する経営者達の侮りや臆病心がありはしないか。自省も込めて記すが、大学を出たての者の知識と知恵を、「社会実装」するまで押し上げるのは、成熟した経営者の忍耐と勇気であろう。


>

役員室から「氏家 純一」その他のコラム

hourglass_empty